どうもどうも、名無之です。
今日は少し真面目なお話を。僕が普段、本とか映画とかを見ていて途中で中断するときの基準についてお話しようと思います。
この近況ノートは、今後の読み合い企画などを主催する際に随時引用していこうと思いますので、いつものはっちゃけたり、ふわっとした感じではなく、真面目なテンションでお話しようと思います。
頑張ります……。もし、耐えられなくなったら(あぁ、耐えられなかったんだな)と思ってください。
前置きはさておき、本題に入りましょう。
僕が物語を読むのを中断するタイミングは2つあります。これは現段階の数字であり、今後変わる可能性は大いにありますが、その度に修正しようと思います(修正に際して新しく近況ノートを書くかは未定です)。
1つ目は「無駄な話ばかりする物語」。
例えば、「私は人を殺しました。私の今のプロフィールは〇〇で、殺した相手とは〇〇な関係にあります。思えば、私は子供の頃、〇〇な人でした、小学生ではこういうエピソードがありました。その小学校で同じクラスだった〇〇ちゃんはちょっと変わった人でした。なぜならこういうエピソードが……」と無駄な話が無限に続いていき、肝心の主人公が人を殺す時の話、殺した後の話を一切しない。
そういう物語に関しては申し訳ありません。一定の鬱憤が溜まったら、容赦無く切ります。例え、学校の先生から最後まで読めと言われても切ります。
なぜかというと、先ほど「鬱憤」という言葉が出ましたが、僕にとってこういう類の話、正確に言うと物語が指し示すベクトルとは違う方向のエピソードはストレスで仕方がないのです。先ほどの例で言うなら、僕はなぜこの人が人を殺してしまったのか、そしてこの人はこれからどうなるのか、が気になるのに(特に後者)、その話を全然されないと、いくらなんでも冷めてしまいます。
どの物語にも必ず終わりがあります。物語はその終わりに向かって進んでいるわけであって、特にエンターテインメントを謳う作品は読者を結末に向かって引っ張っていかないといけない。そう、僕は考えます。だから、物語に収まっているエピソードはあまねく結末を形作るためにあるべきで、作者もそれを考えて物語を作るべきだ、というのが名も無い作家の主張です。
もちろん、例外はあります。僕がよく挙げるのがローレン・スターンの「トリストラム・シャンディ」なのですが、話が脱線することを目的として書かれた話で、脱線することが心地よく感じてしまう作品です。その他にも、あるにはありますが手で数えられるほどです。自慢ではありませんが、僕は人並み以上にエンタメ作品に触れています。その上で、手で数えるほどしかない、ということは僕的に無駄な話をする作品は耐えられないのでしょう。
今ここで「僕的には」という言葉を用いました。
そうです。あくまで僕は無駄な話をする作品が嫌いであって、皆さんが感銘した作品を、または皆さん自身の作品を否定するつもりはありません。僕以外の全員から称賛を浴びれれば、それは間違いなく名作です。
事実、僕はあまり好きでは無いけれども、名作と呼ばれる作品は数多くあります。このことは、次の項目でも同一ですので、僕が好きでは無いからダメというわけでは一切ないことを心に留めておいてください。
誰かを感銘させた、もしくは誰かが作りたくなった物語は、そうであった時点で命の誕生と同等ぐらいに素晴らしいことだと僕は考えます。その前提があって今の話をしていることを忘れないでください。
さて続いて、といきたいところですが、いい時間になってしまったので、これくらいで終えようと思います。
2つ目は明日の近況ノートに書きますので、もし気になる人がいればぜひ読んでみてください。
それでは、また!