少し思ったことがあったので、戯言を書いてみました。
「投げられた石にとって、落ちるのが悪いことではないし、上るのが善いことでもない。」
ローマ帝国の皇帝、マルクス・アウレリウスが述べた言葉だ。
卒業式などで「ご卒業おめでとうございます。」と言われてきたと思うが、卒業というものは本当におめでたいことなのだろうか。
誰の未来も前途洋々で明るい雰囲気でゲストなどが経験を元に送り出す。
が、私はこれまでの経験からほとんどの人間にとって人生というものはそんな大した物にはならないと思う。
たまたまいいに巡り会えたとか、生まれ持った才能があったとかそう言うものばかりだと感じる。
そんなたまたま上手くいった人たちを私たちは祭り上げて、その人の過去の経験から無理やり教訓を引き出したり、未来に向けたメッセージを抽出しようと頑張りすぎている気がする。
そんなことが本当に役立つのだろうか。
そんなことが本当に大事なのだろうか。
私がもっと大事だと思うことは、全く上手くいくか分からない、むしろ失敗するという中にとりあえず、足を踏み入れるような意味不明の何の根拠もない勇気だと思う。
ルールや倫理に囲まれるこの世界で、ちょっと逸脱して、やってはいけないことや言ってはいけないことに足を踏み入れるような実験ぽい精神をどう持つかが大事であり、とりあえず訳が分からないものを試してみるという精神を身につける方法が一番大事だとも感じ、成功はいったん忘れた方が良いまであるとも思う。
では、それを身につける方法は何なのか。
私は三つ挙げようと思う。
一つ目は子供になることである。
「裸の王様」のおとぎ話にあるように、ファッションが大好きな王様に透明な服を着るように詐欺師が騙し、その恰好で王様が裸のまんまパレードをする。
皆が煽てる中、一人の子供が「王様が裸だ。」と指摘する。
この話から「馬鹿になれ。」「無知になれ。」というメッセージが含まれていると思う。
二つ目の異国者になることも一つ目と同じような意味だと思う。
第三者になることで何かを言える、外側から圧力をかけていくということである。
しかし、この二つは突き詰めるとあまり良くない方法だと思う。
野次馬と変わらないからだ。
では、内側から変化を付けるためにはどうすればいいのか。
それが、三つ目の武士になるということだ。
昔、財閥解体が行われたときに渋沢財閥が解体しなくてもいいと提案されたのに拒否したことがあった。
通称ニコ没と言われる、ニコニコしながら没落しようということだ。
ここにあるのは、社会を次のステップに進ませるために、自分たちを犠牲にしていくという精神である。
こんなことを考えると、私たちが参考にすべき存在は、分かりやすい成功者ではないのではないか。
成功を積み上げている人よりも、自らの成功を積極的にぶっ壊せる人なのではないか。
そして、この言葉に帰ってくる。
投げられた石にとって、落ちるのが悪いことではないし、上るのが善いことでもない。
この先、上っているのか落ちているのか分からない状態を長い間過ごしていくと思われる。
その時に、諦めたり判断したりしないで、そこで耐えることこそが生きることなのではないかと思う。
そしてそこで成功した時には積極的にその成功を手放していくことが大切なのではないか。
私が小説に手を出したのも、私が歩けなくなってしまう最悪の想定をしたからである。
全てを失ってしまった時には小説を書いて人生を過ごしていこうと思っている。
だから、これを読む皆さんにも一緒にニコニコと没落していただき、すべてを失った時には私の小説を読みに来てもらいたいですね。