古志加の手を借りるのはここまで。
古志加はその二日後、桃生柵へ発った。
阿古麻呂は、思い切って荒弓に相談しに行く。
「お? 恋したのか?」
荒弓はニコニコと人の良い顔で言う。
「まさか……。」
転んだ女官を助け起こして、落とし物を拾っただけだ。
「でも、そうなるかもしれません。」
華奢な細い腰の女官で、手が白く、柔らかだった。
何故か、助け起こしただけなのに、驚いた顔でこちらを見て、涙が一粒、零れたのを見てしまった。
悲しげな影に沈んだ、つぶらな瞳の、清らかな顔立ちの女だった。
その顔を見て、阿古麻呂は、はっ、と息を呑み。
(───名を訊きたい。)
そう思ったが、女官は恥じて、すぐ逃げてしまった。
もう一度、必ず会おう。
阿古麻呂には予感がある。
きっと、もう一度会い、きちんと顔を見て、言葉をかわしたら。
恋になる予感が。
「はっはぁ……!」
荒弓は満足そうに笑った。
「三日後、辰の刻(朝7〜9時)に、川に洗濯しに女官が集まるぞ。
雨なら次の日だ。」
「ありがとうございます。
よくご存知ですね。」
「何年大志をやってると思ってる。」
荒弓は、バチ、と片目をつむった。
* * *
洗濯も女官の務め。
自分の分だけではない。女嬬や、位の高い人々の分や、布団用の布や……、洗濯しなければいけない布は、沢山ある。
甘糟売はいつものように、十人の女官で集まり、楽しくおしゃべりしながら、布をもみ、洗濯棒で叩き、川にさらす。
洗濯を終え、桶と布を抱え、洗濯干し場へ向かう最中も、女官たちのおしゃべりは止まらない。
突然、列の後ろのほうから、何人も、わぁっ、と一斉にさざめきたったのが聞こえた。
甘糟売が、なんだろう、と思っていると、
「見つけた!」
と男の声がして、左肩をつかまれた。
驚いて振り向くと、見覚えのある衛士が、───垂れ目の若い、転んだのを助け起こしてくれたあの衛士が肩をつかんでいた。
「は……!」
言葉にならない声が、驚いた甘糟売からもれる。
男はにっこりと笑い、垂れ目が細くなり、優しげな印象の顔がますます優しげになり、肩から手を離し、
「甘糟売、忘れ物!」
と失くしたと思っていた唐紅の手布を差し出してくれた。
「あの、ありがとうございます。なぜあたしの、名前を?」
きっと、階段で転んだ時に手布を落としたのだろう。
この人はそれを拾って、わざわざあたしを探してくれたのだ。ありがたい。
でもなぜ名前を知ってるの……?
「古志加に訊いた。同じ卯団なので。」
と男は、甘糟売が手布を受け取ろうと伸ばした手に手布を乗せ、
「オレは阿古麻呂。覚えて。」
と手布ごと、両手で甘糟売の手を握った。
きゃあ、とまわりの女官が興奮した声をだす。
甘糟売は、驚きすぎて声が出ない。
身体が固まって動かない。
(手を……!)
男は左手で甘糟売の手を下から握ったまま、右手で懐から小さな雀色の壺を取り出し、唐紅の手布の上に置き、甘糟売の手に握らせた。
「洗濯は大変な仕事だ。椿油を手に塗ると良い。」
垂れ目の男は、甘糟売の目を見て、笑いかけながら、
「また会って……。」
と手を離し、さっと女官たちの肩を縫い、いなくなった。
突然やってきて、あまりに鮮やかに去っていった。
この手布と雀色の壺がなければ、白昼に短い夢を見たような……。
きゃあ、きゃあ、とまわりの女官がいっせいに歓び、福益売が、
「恋よォォ! これは恋! きゃ───ッ!」
と大声をあげている。
(ええ……?
恋……?
あたしに……?)
「こ……。」
口に出そうとして、声にならない。
心臓が高鳴って、身体が震え、頬が熱い。
優しそうな顔の、ちょっと低い声の、力が強い人だった。
阿古麻呂といった。
阿古麻呂、阿古麻呂……。
素敵な人だった。
「こ……?」
(あたしに……?)
力が抜けた。
甘糟売は、洗濯桶と、唐紅の手布と、小さい壺を握りしめたまま、その場にぺたんと座りこんでしまった。
* * *
それから四日後。
阿古麻呂は警邏中に、庭の石畳を歩く甘糟売を見つけた。
組の衛士の花麻呂に、
「ちょっと、ごめん!」
と断りを入れ、
「甘糟売!」
と背中に声をかけた。
桃色や、白や黄色、橙の百合を抱えた甘糟売は、ぱっと振り返り、
「あなた……、あたし知ってるのよ、古志加に酷いことした人だって。」
とこちらを睨んだ。
甘糟売と一緒にいた女官は、すっと離れて、二人きりにしてくれた。
「酷いとは……。」
と、想像はつくが、困り顔で訊くと、
「去年の七夕の宴の翌日、古志加と市に行って……、古志加、泣いて帰ってきたわ。
皆、知ってるんだから……。」
「ああ──────。」
阿古麻呂は目をおさえて天を仰いだ。
「あれは本当、反省してます。
もうあんなことはしません。
古志加にもきちんと謝って、許してもらったよ。それは聞いてない?」
「……。」
甘糟売は無言でぷいっとそっぽを向き、横顔でちらっと阿古麻呂を見た。
「……古志加に妻問いしたんでしょ。恋うてるんでしょ。」
正直に白状しよう。
「したよ。恋うてた。
でも、断られたよ。古志加の眼中にオレはいない。
そしてオレも……、古志加は良い衛士仲間で、今はそれだけだ。」
阿古麻呂は、すぅーっと息を吸い、ひたと甘糟売を見つめる。
「今は、オレの心を占める女は、他にいるから。
その女は、目がつぶらで、どんな花よりも清らかで美しい……。」
伝わって、と思いを込めて甘糟売の横顔を見つめていると、甘糟売の顔に朱がさし、無言で腕に抱えた百合の花に顔を埋め、姿を隠してしまった。
「甘糟売!」
と遠くで女官が呼ぶ。
駆け去ろうとした甘糟売に、
「また会って! 甘糟売!」
と慌てて声をかける。
甘糟売は立ち止まり、耳を赤くして、こくんと頷き、走り去って行った……。
* * *
その後もなにかと機会を見つけ、甘糟売と会った。
女官は上毛野君の屋敷の敷地を、使いやお供でなくば出ない。
ちょっとの時間を盗んで、短い時間だけ、言葉をかわす。
言葉をかわすたび、甘糟売は頰を染め。
はじめは戸惑いがちに伏せていた目が、だんだん阿古麻呂をとらえ。
初めて会った時は、あんなに悲しげだった瞳の色が、少しずつ明るく。
恥じらいばかりだった表情が、笑顔に変わっていった。
それは、きっと、オレがそうさせている、と思うと、阿古麻呂は満足のため息を禁じえない。
* * *
九月の観月の宴。
「甘糟売!」
空になった酒壺と、料理の皿を炊屋へ運ぶ甘糟売の背に、声をかける者があった。
阿古麻呂。
ちょっと低めの男らしい声。
顔も仕草も優しいのに、その良く響く声に、甘糟売は男らしさを感じる。
戌の刻。(夜7〜9時)
甘糟売りは振り返り、……自分の顔が華やいで笑ってしまうのを感じる。
「老麻呂……、ごめん。」
と、阿古麻呂が組の衛士に声をかけ、こちらに小走りに走ってくる。
甘糟売も、一緒にいた福益売に、
「……お願い。」
と言う。
福益売は、「んまっ。」とおおげさに驚いてみせ、にっと笑って、離れてくれる。
……これが初めてではないのだ。
側に来た阿古麻呂が、真面目な顔で、
「甘糟売。」
と名を呼ぶ。
「はい。」
と甘糟売は微笑んで返事をする。
「今日会えたら、言おうと思ってた。
月影のような清かな青さの、美しい甘糟売。
オレの頭のなかは、甘糟売でいっぱいだ
恋してる。
オレの妹になって、甘糟売。
オレを、愛子夫と呼んでほしい。
必ず、必ず、幸せにする。」
阿古麻呂が、はっきりと言った。
「は……! わ……! わ……!」
阿古麻呂は、かなり、大きな声だった。
後ろの衛士や、福益売にも聞こえてるかも、と思うと、瞬時に首から上が真っ赤に熱くなる。
「甘糟売は、オレのこと、どう思う?
嫌じゃなければ、嫌じゃなければ……、これを受け取って。」
阿古麻呂が、白い麻布の小さな袋を取り出し、手のひらに載せ、甘糟売の眼の前に差し出した。
無理に渡そうとはしない。
甘糟売が、自分から手にとるのを待っている。
甘糟売は、目を細め、……心臓が早鐘を打つのを感じる。
しかし、苦しくはない。
温かい。
全身が、温かい。
(思ってもみなかった。
誰かに、恋してます、オレの妹よ、と言ってもらう日があたしに来るなんて。)
「あ、あたしのこと、恋うてるの……?」
阿古麻呂は、甘糟売の目をまっすぐ見て、
「恋うてる。」
と強く言い切った。
甘糟売は涙ぐみ、花が溢れるように笑い、
「あ、あたしも……。い。」
ごくりと唾を飲み込み、
「愛子夫……。」
と阿古麻呂の手のひらから、小さな麻袋を手にとった。
「甘糟売! オレの妹!」
阿古麻呂にがばっと抱きしめられた。
力強さに驚き、声もでない。
「おおっ!」
「きゃあっ!」
と、衛士と福益売の声がする。
「ご、ごめん、つい……。嫌だった?」
阿古麻呂はすぐ身を離し、すまなそうに謝った。
甘糟売は、赤い顔で、はああ、と息をつき、白い麻袋を右手で握りしめ、阿古麻呂を見て、首をふるが、言葉が出ない。
阿古麻呂は、優しい顔で、いつも優しい仕草なのに、時々、はっとするほど男らしい。そして、力強い。
抱きしめられて、甘糟売の心臓はびくんと跳ねたようになって、
わああっと、身体の内側から、感情が噴き出してきた。
強い歓び。
(あたしは嬉しい。
この逞しさが好き。
あたし、今、阿古麻呂の腕の中にいる。
あたしは、嬉しい。)
感情の奔流が激しすぎて、世界が回転したように思った。
今、全ての風景が輝いて見える。
抱きしめられたのは、瞬き三つぐらいの間だったと思う。
本当は、もっと、抱きしめられたい。
でも恥ずかしい。
(どうしたら良いんだろう、こんな気持ち……。)
甘糟売が呆然としているので、阿古麻呂が不安そうに見ている。
「あ、あの……。い、嫌じゃないわ……。」
と左手を自分の頬にあてる。頬が熱い。
阿古麻呂がほっと息をつき、
「甘糟売……。」
と心から嬉しそうに笑い、つられて甘糟売も微笑む。
「もう行くぞ!」
と衛士が声をかけるので、阿古麻呂とそこで別れた。
* * *
阿古麻呂がくれた小さい麻袋の中身は、大きい蒼玉の耳飾りだった。
すごく立派で、高価なものなので、びっくりする。
嬉しい。
あたしは、この日を一生、忘れない。
この耳飾り、必ずつけよう。
でもその前に、袋を作って、肌身離さず、懐に入れて、ずっと持ち歩きたい。お守りのように……。
あの、唐紅の手布を裁ち、あたしは袋を作ろう。
高価な蒼玉を包むのに、あの貴重な布はぴったりだ。
もう……、藤売の思い出は、あたしの遠くだ。