三津凛

環と名付けたのは、鶴子であった。 池の鯉ばかり眺める環は母や父や鶴子に、疎んじられるようになっていった。

あらゆる部屋の隙間に、男が身を潜めている。1人でいるときに、誰かの視線を感じる。だが誰もいない。どこにもいない。

ワンカップ大関とゆで卵。 巳様への供え物を、臆面もなく口にする。 神を畏れないものはいない、神以外には。

お前は死んだのかい。 言わない側から、舌が落ちた。 あの女は誰だ。 見憶えはある、確かにあの女だ。 昔の女だ。

少し遅い盆休み。 私は祖母と母の妹、美智恵さんの住む田舎に帰省した。 たった1年で、人はここまで混濁するのかと慄然とする。 祖母と向き合うのが怖い。 「その時生きている時代によっ…

過去は消えない。 傷はまだここにある。

私は心を忘れて来たのかもしれない。

やはり恐ろしいのは、人を鬼にさせる強い念である。

春はまだ遠い。 春はまだ見えない。

「御伽物語」より、「蜘蛛が人を食う事」を下敷きに着想。 廃寺の屋根に甚だしく蠢くもの。

文学の表現するものとは、まさしく悪の極限の形態－なのだが、その悪こそ、私達に取って至高の価値を持つものだと私は考えている。しかしそうだからといって別に道徳の不在を主張しようという…

私たちは決めた。 夜はそれぞれの家庭に帰って、奥様になる。また昼間には、私たちは独身に戻って恋人同士で街を歩いてやるのだ。

「あたしは蝋人形よ、ふふふ…音の出るよくできた人形よ。でも顔が良いのも才能の一つだって思わない？」

今はもうないホテルの更地を見るたびに、あの異様な昼食を思い出す。

美しいあの人を、自分のものにしたい。 私はその時、邪神に誓ったのだ。

片方だけ脱げたミュールは処女の喪失を表す。 今の私と、マネの描いた「オランピア」とはなんの繋がりもないはずなのに妙に重なる。 確かに何かをこの日に私たちは喪った。

一緒に死んでくれる人、募集します。 みんなみんな、死にたがりばかりだ。 私は自分のことは棚に上げて心底思う。

空を飛びたいと願うのは、もう二度と飛ぶことの出来ない人だけよ。 だって、自由のさなかにいる人は今さら空を見上げないし、羽ばたきたいとも思わないもの。 あれはマコちゃんであって、…

「地獄に堕ちる前に、結婚するの」 こうやって、有理子(ゆりこ)が愛する人たちが誰よりも手酷く有理子を傷付けていく。

恋って、口の中で弾け飛ぶ炭酸みたいなものね。

死んだ人たちは帰ってこない。喪われた時間は戻ってこない。ペンを握れない子どもたちは、ある日突然教科書を開くようにはならない。

さようなら、は正しい言葉なのだろうか。 それは人間が言う言葉だ。私はほんの少しだけ、考えた。人間が自由であることは多分、未来が分からないからだ。決まっていないからだ。

毎年繰り返されるつばめの営巣と、死に向かう人間の対比。

子どもの頃に上手く食べられなかった水あめの味。 偶然入った駄菓子屋で、懐かしい記憶と共に私は水あめを買ってみる。 時間を巻き戻すように何かを手に入れてみると、意外な結果に私たち…

私の将来は決まっている。 ヴァイオリニストになること。だから、そこから逆算して今日やること明日やること…1年先にやることだって決まっている。同級生達は進路の決まっている私のことを…

「ユダの裏切りがなければ、キリストは神になりえなかった」 劇団を主宰する私とそれを支える晴海。ふとしたことから私は晴海の裏切りを知ることになる。

そこにあるべきものが欠けていたり、あるべきでない所に余分なものがあったりすると、私たちは何かが脅かされたような気になる。ちょうど１つしかない目や、1本多い指を目の当たりにしたとき…

人は誰でも、夢を見る。 人は誰でも、神になりたがる。 つぐ美はそんな人類の一つの夢だった。

まだ私は言葉を知らない。 誰かに語りかける言葉を、まだ知らない。

スノードームの中に佇む雪だるまみたいな存在の私たちに、束の間引き摺られる影ができる。 確かに存在しているという実感が持てる瞬間とは、そういった時ではないかと私は思う。

一方的な片想いに過ぎないのだけれど、何か一つでもいいから彼女と私の世界が重なるところが欲しかった。

もしも嘘がなかったら。 そんなことを考える人間は大抵どこかで大嘘をついている。

死んだ後に辿り着く先も、また見た景色だとするならば、希以子は救われるのだろうか。 魂の彷徨う途は、残酷なメビウスの輪のようだ。

雑踏の隙間から、サラの若い声が聞こえて来るような気がする。 オイディプスも、アガメムノーンもメデイアだって、異性愛から生まれる悲劇よ。…でもそれはまともなんだわ。私たちは殺しも…

プチシュークリームは気まぐれに注がれる愛情と似ている。

女がみんな、パンケーキを好きなんて思うな。 可愛げのある傲慢さ。 危うい所にある２つの魅力が祐里子さんを嫌いになれない理由かもしれない。

水清ければ魚棲まず。 元の濁りの、田沼恋しき。 一点の曇りも濁りもない人間はただの良い人で終わる。人は薄汚れていても、濁った誰かの方を求める。

冬のアイルランドは雨の国になる。ダブリンは雨の街になる。

ピンで私の胸に留まっていたそれは、確かにママの倫理だった。

私はプラハでの一夜を忘れることができない。

街がDing-Dong遠去かっていく。 独りきりの寝床がDing-Dong近づいてくるわ。

モーンガータは私の国ではどこで見ることができるのだろう。 本当は私が知らないだけで、モーンガータはあるのかもしれない。

子どものころの夢というのは、今の自分からいかに隔たっているかが希望を起こさせた。だから、何にでもなりたいと思えた。 今思い描くものは、いかに今の自分と卑近なものかで決められる。

私が一番最初に成したことは、殺人だった。 それを夏の午後、父ちゃんに言い放ったら思い切り打たれた。

ほとんど習ったことは、時間の流れと一緒に石鹸水のように流れていった。 今でも憶えているのは、The Heart Asks Pleasure First. 楽しみを希う心。

蛙のように股を開いた結果がこれだ。胤はいらない。ならば堕ろすまで。

誰も、誰も、私に用はない。 不条理だった。

前世であなたを殺しました。 隣に座った一年生に、不意に言われる。

生き続けたいなら、啓示ではなく確率を信じよ。 誰よりも公正で公平で平等な知性が導き出す確率と帰結で私たちは生きている。 彼女と私の99%は同じ数字でも徹底的に重ならない。