初めまして、紫月冴星と申します。
「社会学」は通常、大学や短期大学、専門学校等で履修が可能になる学問なのですが、私はこの「社会学」をもっとたくさんの方々に…さらに言うと、小学生の皆さんに知っていただきたくて、小説を書いています。
社会学はほんとうに面白いです。
「そこにあるけれども見えない、気づかない」に光をあて、視野を広げ、発想を豊かに、徹底的に「考える」ことを要求する社会学は、複雑な現代社会を生きるみなさんにとって有用であり、役に立ってくれる、心強いツールだと私は信じています。
何より、私自身が小学生の時にこの学問に出合いたかったという思いから、小学生に向けた社会学の発信を目指して執筆を続けております。
小学生の時、あらかじめ「望ましい」答えが用意されたような「考える」時間が私は嫌いでした。本来なら幾通りもの答えや、発想がありうるはずなのに、「見るべき対象」「感じ方」「考え方」を方向づけられているようで、枠にはめられているようで、歯痒かったのです。
特定の価値観に収まらない、教科書に書かれていない類の見方や考え方は徹底的に否定して排除する、そういう先生方の対応も嫌いでした。
もちろん、公式に当て嵌めたり一定の手順を踏みさえすれば正答に辿り着けるような「考える」も大切です。
ですが、必ずしも正答が用意されていない困難な「悩み」や「問題」に対処・対応しうるような、想像、予測、予想、判断などを伴う行為としての「考える」力を養うことも、大切だと思うのです。
それは、暗記に支えられた「考える」だけではやっぱり不十分なのです。
色々なことを知っている、覚えているだけでも、やっぱり心許ないのです。
加えて今は、スマホを使えば手っ取り早く必要な情報や知りたかったことにアクセスできますが、ほんとうに知りたいこと、解決したい悩みや問題に対する答えほど、自分で考え(時には調べ回って)、結論を出す必要があると思うのです。
その時に、どれくらい柔軟に、さまざまな角度から物事に向き合い、思考/試行することができるのか?
それはすなわち、「いかに」「どれくらい広く深く」考えたことがあるのか。
それも、誰かの意見や考えを自分で考えたように受け入れたような体験ではなく、「自分の頭で」考えたことがあるのか、です。
ここで、少しだけ私の学問に対する考えの「前提」をお話しさせていただくならば、
社会学推しの私ではありますが、正直なところ社会学「だけ」やっていても、(自分の頭で)「考える」には不十分だと思うのです。
当然のことながら、社会学以外にも魅力的な考え方や視座を提供してくれる学問はたくさんあります。
「考える」機会を与えてくれる、知的好奇心に刺激を与えてくれる魅力的な学問はたくさんあります。
ただ、私の場合は、社会学が一番知的好奇心を刺激されて、テンションが上がるので(笑)、社会学をことさらにプッシュしていますが、自分の頭で「考える」を触発してくれる対象は学校教育にどんどん取り入れて欲しいと願っていますし(とはいえ、現場のご事情もあるかと思いますので、あまり強く言うのは憚られますが…)、これからも私は、微力ながらも私のできる限り、みなさんの「考える」機会を提供できるような「社会学」をお伝えしていきたいと思います。
そして…学問は頭の良い人がするものだ、と言われることが多々ありますが、声を大にして「違う」と言いたい。
昔はそうだったかもしれませんし、特権的なものとみなされても仕方がない側面がありますが、頭を良くするだけが学問の役割じゃない。ましてや頭の良い人がするものでもない。
学問によって培われる「知」は、心を守り、強くもしてくれる、一生の財産です。
それは即効性があったり、わかりやすく直接の効果をもたらしてくれるものではないかもしれませんが、先の未来までをも照らしうるずっと消えない光明のようなものだと思っています。
どうですか、社会学のこと、知りたくなりましたか?
え、全然?(……チッ←こらこら!)
では気を取り直して、作品について言及させていただきます。
現在連載中の『「僕」と「孤独」の境界線 ―社会学カフェへようこそ―』は、Amazonで発売中の『愛と秩序の四時間目 ―小学六年生への社会学講義―』の時間軸から約10数年前の物語です。
中学生のカンナギ、蓮が純喫茶「ルディック」で社会学カフェを運営することになり、様々なお話が展開されていく予定です。
頑張って執筆いたしますので、応援いただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします!
ここまでお読みくださりありがとうございました。