或時は空しくも見ゆ金魚玉 ー 杉本禾人

8月になりました。
近況ノートをブログのように使ったらどうかという話になり、試しに何か書いてみることにしました。

こんにちは。武濤(タケナミ)と申します。
まず名前の由来をお話ししたいです。

急ごしらえでペンネームをつけなければならなくなった僕の夢枕に、2人の祖父が右から左から現れて、
「お前にできんのかぁ?」
「いいかい、やるなら、なにかひとつおもしろいものをこさえてみなさい」
と叱咤激励ののち煙と消えたので、そこで彼らから1文字ずつ拝借することにしました。
気に入ってはいるのですが難読なのが瑕。
実は本名も難読というか珍名で、しょっちゅう聞き違い読み違いが起きるため、苗字が難しい=普通、だったのですが、今にして思えばもっと付けようがあったのではないかとも。


さて、掲句。
彼の名前、読めます?
僕は読めませんでした。「のぎひと」って読んでました。ごめんなさい。
高浜虚子に師事した、杉本禾人(かじん)です。

金魚を飾る小さな器。軒先に吊るして夏の涼を楽しんでいたのでしょうか。
僕はあまりアートアクアリウムのよさが判らないのだけれど、金魚はそもそも観賞用に交配を重ねた観賞魚。澄んだ水の中から人の目を楽しませる存在ですよね。
あるとき、ふと、それを見ていて空虚な思いに苛まれる。

禾人が生きていた頃の夏は、どのくらい暑かったのでしょうか。
物理学者の寺田寅彦は、江戸の夏の涼しさは名物であると書いたそうです。
同じ時代を生きた2人ですから、8月朔日に「もう勘弁してくれ」と床に這いつくばる現在よりうんと涼しくて、立冬の頃には「ああ、もう秋か」なんてしんみりしちゃうような気候だったのではないかと嫉妬…もとい想像します。

禾人が感じたのは、血気盛んに燃ゆる夏が過ぎ去ってしまう虚しさか。
あるいは、水で満たされた器にキラキラと差しこんでプリズムを作る陽光と、その中を優雅に泳ぎまわって、ただ美しく、はかなく、人のためにあるだけの小さな生き物への空々しさか。

ぼんやりと眺め暮らすにはうってつけの、人の手で作り出したそれが、まるで頼りにならない形式だけで実質の伴わないうつろなものに思えるような。

最近ふと、そんなことを考えていました。

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