(ブログ的な長文投下先を持ち合わせておらず、ちょっと畑違いにはなりますが、綴る言端も歌う言端もほとんど同じようなものだし、本好きにとって全く無縁な話でもないので、軽い気持ちで一読ください)
いよいよせまってまいりました、10/1(日)合唱団パンドラボックス第4回単独演奏会。
ゲスト枠のthe Garden of Kのステージにて、畏れながらソリストを努めさせていただきます。
曲は、
空の境界 第三章 痛覚残留より「傷跡」
元々想い入れの深い曲でして、その中でもあの大切な一文をうたうのは、一周まわって複雑なおもいです。
ですので、ここ数日あらためて浅上藤乃という人間について、考えていたのです。(ここから先は個人の見解となります。)
浅上藤乃は、本質的に等身大の16歳のように見えます。幼少期はもちろん、無痛症になってからもです。母に抱きしめられたことが嬉しくて嘘をついてしまう。心配されたことが嬉しくて嘘をついてしまう。自分を普通だと思ってくれた人に憧れてしまう。その人と触れたい、話したい、生きていたい。
欲求そのものは誰もが抱く凡庸な願いでしかありません。そもそも本当に狂っているなら、痛みを感じない→普通じゃないと思われる不安、生きている実感がないという思考回路にはならないのですよ。
浅上藤乃は、至って正常な考えを極めて異常な手段で実現しようとしただけなのです。健気ですよね。
さて次は、浅上藤乃と私の対比です。
身の上話が苦手な方は思い切りスクロールしてください。(ページ機能がなかった)
私は身体上の痛覚は正常です。多少鈍いかもしれません。自分の車幅がわからない系の人なので日常的に色んなところにぶつかってしまい、慣れたのかもしれないですね。それが先か後かは知りませんが、おそらく平均的な人に比べて心身の痛みにかなり鈍感です。昔は人並みに痛がりました。ただやむにやまれぬ事情があり、気合いで認知改造をしました。痛いことは判ります。しかし解りません。痛覚を直接的に遮断することはできなかったので、痛覚にインプットがあってから脳に到達するまでのパイプを捻じ曲げたイメージでしょうか。とにかく、ほとんどの痛みは私にとって"大したことがなく"、認識するに値しません。
浅上藤乃が「正常な考え」と「異常な手段」なら、
私は「正常な感覚」と「異常な考え」です。
完全対比ではありませんが、まあ交わりませんね。
===ここからは安全です=========
そこで私、気づいてしまったんです。
あれ?浅上藤乃を降ろすのは本質的に無理だ絶対に。
参りますよねえ。ゲネ前日とかの話ですこれ。
どうしようと言っても時は止まらなかったので、ゲネは結局浅上藤乃の薄皮を被った感じになりました。
答えは今考えています。
本当に書きながら考えています。昨日の夜も考えてました。烏滸がましくも結構親近感抱いていたので、そこそこ途方に暮れています。
ただここに答えがあるんじゃないか、というところはあります。
「生きることに貫かれて泣いてみたい」なんて、言ってみたい。
まだそうは思いませんが、もしそう思うことがあったら、私の一部はどんなふうに変わるのでしょうか。
憧憬を抱く浅上藤乃を羨望する私。
ここから解へ行き着くかどうかは、果たしてわかりません。まあ無理して至らずともよかろうとは思います。「〜みたい」って、経験していない事柄への期待を孕む言葉ですから。演奏という形を取る以上、最終的な解は聴く方の数だけありますしね。
浅上藤乃さんについて考えた話は以上です。
この先は私にもわかりませんので、シュレーディンガーの猫です。歌った瞬間が答えになります。
楽しみですねえ。