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Re:仮歌③

「あの後、バンドってどうなったの?」
「ベースの子が入って四月から三人で活動する予定でした。その子が大学受験中やから、無事合格出来たら三月くらいから本格的に活動しようって」
「そっか……」

 見通しが立った矢先にこの事故か。
 やっぱりそれは、やりきれない。

 そこで、僕達の会話は止まった。この状況じゃとても喋る気にはなれなかった。受付からは人の姿が徐々に消え始め、会場の席も埋まり始めている。静かだが、それでいて慌ただしさを感じた。

「そろそろ通夜、始まるみたいですね」

 会場の光景を見て御影津さんが口を開く。

「行こうか」
「はい」

 僕達は会場に入った。既にほとんど空いている席はなく、空いていても一人掛けだ。必然的に御影津さんとはここで別れる事になる。

「それじゃあ、ここで」
「ああ。……御影津さん」
「はい」
「もし何かあったら言いなよ。西川がいなくても、一応同じ大学の先輩だし、微力でも相談に乗るからさ」
「……ありがとうございます」

 自分の言った事があまりに見え透いた社交辞令だと言う事は分かっていた。それでも、今は励ますために何か言葉くらいかけてやりたい。

 焼香の間、会場のいたるところからすすり泣く声が聞こえた。一人の若者が死んだことでこれだけ多くの人が悲しんでいる。西川の死を悲しむ人間の数だけ、僕が知らない彼女の一面がある気がした。

 ──俺って本当に何も知らなかったんだな、あいつの事。

 心で呟いても、ただ虚しさが加速するだけだ。通夜が始まったらさすがに涙の一つでも出るだろう。そんな希望的観測を抱いていたが、非情にも自分の感情は気持悪いくらいに冷静で、揺らぐ事がない。

 悲しいんだ。事実、心は沈んでいる。泣きたいんだよ、本当は。横で唇噛みしめてる吉岡みたいにさ。でも、実際の自分は至極冷静に、まるで昆虫を観察でもするかのように目の前の状況を捉えているだけだ。自分の感情が闇に沈んでしまったかのようにぽっかりと穴が開いている。ショックで何も考えられないと言うのとはまた違う気がした。

 西川はきっと、自分の死を悲しんで欲しいなんて思っていない。僕が彼女の死を悼むべきなのはここではないんじゃないだろうか。そんな答えのない問いがぐるぐると頭の中を回り続けるのだ。やがてその疑問は、自分はここに居て良いのだろうかと言う呵責へと姿を変えて僕の中で叫び続けた。

 何となく居たたまれなくなって、そっと会場を抜け出した。吉岡が何か言いたげだったが無視する。

 ロビーの一角に喫煙室があったので、ドアを開けて中に入った。中には腰掛けと、灰皿と一体化している空気清浄機。僕は入り口近くに座るとポケットから煙草を取り出した。百円ライターで火をつけ、深く吸い込む。この感覚が、不思議と心を落ち着かせてくれた。思考を止めてくれるのだ。

 ゆっくりと煙を肺にいれる。随分くらっとした。そういえば携帯はしていたが、もう随分と長い間吸っていなかったのだと思い出す。どれくらいの期間だろうと考えていると喫煙室の扉が開いた。何気なく視線をやる。

 女の子が立っていた。
 学校の制服を着て、小さな黒い皮製の手提げ鞄を持って。
 先ほど受け付けにいた女の子だとすぐに気付いた。
 険しい表情で、彼女は僕を睨んでいた。あまり良い印象を抱かれていないのは明らかだ。

「あの、大城さんですよね。大城誠さん」
「あぁ、はい、そうですけど……」

 何となく改まった口調になる。

「姉の、西川唯の、同じ大学の先輩なんですよね」

 姉、と言う事は妹か。妹が居たなんて初耳だ。
 受付では機械的に感じた彼女の表情だったが、改めて見ると感情の起伏を表面に出さないよう堪えている様にも見える。

「ええ、そうですが」
「姉と仲良かったんですよね」

 良かったのかな。咄嗟の事で思わず返事に詰まる。分からない。少なくとも、今の僕は断言できるだけの自信がなかった。大学の人付き合いにおいて見せる自分の表情なんて、ほんの一面でしかないのだ。知らない部分はいくつもある。

 僕が知っている西川と言うのは、飾り気がなく、気が強く、意外と口が悪い。人付き合いが下手なのだ。だから理解者も少なく、友達も少ない。彼女はただ誰にも譲らない『生きるスタイル』を持っていただけなのに。そのスタイルを貫いていた為に意固地になる部分があり、それ故周囲から怖がられもした。

 しかし蓋を開けてみれば彼女は怖がられるどころか、多くの友人がいた。遺影に浮かんでいたのは今まで見たこともないくらいに朗らかな笑顔。
 西川の印象はここに来て随分と変化しつつあった。三年もかけて形成したものがたった一時間もしないうちに。まだ見ぬ彼女の一面がめくってもめくっても顔を出してくる。

 僕は本当に彼女を知っていたのだろうか?
 僕が黙っているのを肯定と捉えたのか、目の前の少女は口を開く。

「どうして、泣かないんですか?」
「えっ?」
「何で煙草なんて吸ってるんですか? 自分の、大学の後輩が死んだんでしょ?」

 灰が落ちる。

「そんな平然とした顔で、葬儀の最中なのに煙草まで吸って、涙も流さないで、悲しさも見せないで……。何なんですか、あなたは」

 彼女の拳は震えていた。これでも感情を抑えているのだろう。荒れた息で、歯を噛みしめる。

「姉は、よくあなたの話をしてました」
「僕の?」
「大学で面白い先輩がいるって。よく面倒見てもらってるし、音楽の事を色々教えてくれるって」

 その言葉に、息を呑んだ。

「姉は大学に入って変わりました。多分、サークルに入ってから。それまで特に熱中するものもなかったのに、音楽を始めてからは毎日夢中になってギターを練習してました」

 そして、彼女は悲しげな瞳で僕を見つめた。

「それって、多分大城さんが原因なんですよね」
「僕が?」
「大城さんが、姉の音楽の道を作ったんです。それなのに……」

 ──何なんですか、あなたは。

 いや、違う。彼女が言いたかったのは、恐らくこんな言葉だ。

 ──あなたを慕っていた姉は一体、何だったんですか。

 沈黙はそんな言葉にならない彼女の声を運んでくる。
 しばし黙った後、ふと我に帰ったように彼女が深く息を吐いた。

「……すいません、急に」
「良いよ。君の言う事は事実だ。相当態度悪いだろうな、僕は」

 それでも僕は煙草の煙をゆっくりと吸った。

「煙草を吸うのは久しぶりだ」

 思い出した。最後に煙草を吸ったのはサークルを引退した去年の十一月。
 舌はもうすっかり喫煙前の状態に戻っていて、煙を吸い込むと苦味が広がった。本当に、こんな不味い物よく吸っていたと思う。久しい味に体が鉛を入れたように重くなった。

「去年の学祭でサークルを引退してからかな、ふと吸う気が起きなくなってなんとなくずっと吸ってなかったんだ。習慣でいつもポケットには入れてたんだけどね」

 言葉が進むと、なんだか気落ちしてきて僕は少し視線を落とした。

「死を悼んでないわけじゃないんだ。悲しくない訳じゃない。心はずっと沈んでるし、泣きたいとも思ってる」

 彼女は静かに僕の言葉に耳を傾ける。

「でも、今日は随分知らなかった西川の姿が目に入ってね。何だか分からないけど、あいつが死んだことより妙にそっちの方が気になった。久々に煙草に火をつけたのはだからかな。ちょっと落ち着く為にって言うか……」

 ただの言い訳だけど、と付け加えて僕は薄く苦笑いをした。

「自分がどうすべきか分からなくなったんだよ。少なくとも、僕の知っている西川は自分の葬儀で泣いている人を見て笑っちゃうような奴だったから。僕も、あいつも、ただの音楽馬鹿だと思ってたからさ。そんな印象が少しぼやけたんだろうな、きっと」

 少女は静かに僕の横に座った。視線は前を見たままだ。予想外の出来事に少し驚く。煙が行ったら悪いので火を消そうとした。

「良いですよ。吸ってて」

 少女は言うと、僕を見た。

「あなたに見せたいものがあるんです」

 彼女が鞄から取り出したのは、赤いブックカバーがかかった、手帳だった。

「それは?」
「姉の手帳です」
「西川の?」

 手渡された手帳は随分ボロボロだった。長い間使用していたのが見て取れる。開くとスケジュール帳ではなく小さなメモ帳だった。空白のページに好きなように文字が書けるようになっている。

 故人とは言え、人の物を勝手に見ることに罪悪感が浮かんだ。この手帳には西川のプライベートな事柄が少なからず書かれている。そんな物を見てしまっていいのだろうか。
 しかしそんな迷いは、手帳の中を見た瞬間に消えた。

 手帳には、ぎっしりと文字が書かれていた。
 音符と、文と、英語。ギターの譜面であるTAB譜と、歌詞と、コード。

 曲のタイトルに、詳しいコード、ソロの譜面、音作り、その他備考。見覚えのある歌詞やコード進行だった。覚えている。西川が昔コピーバンドで演奏していた曲だ。楽譜がない曲を自分の耳でコピーして、記していたのだ。どんなエフェクターを使っていて、PVやライブ映像で本人はこの様に弾いている、そんな細やかな事まで漏らさず記されていた。

 耳コピは僕達のようなサークルでは基本的な技術だった。サークル活動では既存バンドの曲を演奏するコピーバンドが中心となるが、少しマイナーな曲になるとほとんどの場合楽譜がない。耳で自分のパートを聞き分け、演奏するしかないのだ。しかしそれは初心者にとっては難しい技術だった。すぐにパッと出来るものじゃない。

 ──耳コピがなかなか出来なくて。

 昔、西川にそんな相談をされた。
 手帳には一ページにつき一曲が記されており、どう見ても二百曲はある。辿っていくと、彼女がサークルでやってきた曲が古いものから順に書かれているのが分かった。
 その手帳には西川の音楽が、彼女が辿ってきた学生時代の軌跡が詰め込まれていた。

「随分練習したんだな……」

 ページをめくっていくと、やがて終盤に差し掛かった。今までと少し雰囲気が変わり、更に細やかなコード進行や、他パートの事まで書かれている。
 すぐに分かった。ここからはオリジナルソングが書かれているのだと。

「見て欲しいのは、このページなんです」

 少女は口にすると同時に、横から手を伸ばし最後のページを開いた。
 書かれていたのはたった一小節の楽譜だった。コードの単音弾き、アルペジオ。

「作りかけの曲……」

 大学で彼女が歩んできた音楽の終着点がそこにあった。

「本当はあなたにこれを見せる気はありませんでした」

 僕は顔を上げる。

「実は私も高校の頃はずっと音楽してたんです。ベースですけど。お姉ちゃんと一緒に音楽しようって。でも、それは出来なくなってしまった」

 彼女の声は湿っていた。

 ──ベースは当てがあるんす。

 西川は春から妹とバンドをするつもりだった。

「だからせめて、この曲だけは私が作ろうと思ったんです」

 少女はそこで、静かに拳を握る。手が震えていた。今まで抑えていた感情が漏れ出る。随分大人びて見えた彼女が、年下の女の子に戻る。

「でも、全然分からないんですよね。作曲も出来ないし、ギターも弾けないんです。それに、お姉ちゃんがどんな曲を好きで、どんな事を経験して、どんなギターの音で、どんな風に演奏したのか、私には全然分からないんです」

 手帳に雫が滴り落ちた。鼻水と涙でくしゃくしゃになった顔で彼女は僕の方を向く。

「あなたと話していて、何となくお姉ちゃんがあなたを慕った理由が分かった気がしました。あなたが知らないお姉ちゃんの姿なんて、些細な物なんです。あなたは別の物を見ていた。もっと別の所から、お姉ちゃんと感覚を共有していたって思いました。そして、それがお姉ちゃんの感情に一番近い物だと」

 彼女は、赤く潤んだ目で僕を見つめる。

「大城さん、私も信じて良いですか? お姉ちゃんの代わりに、この曲を託したいんです」

 いつの間にかタバコはフィルターに近い所まで燃えていた。最後の一吸いをすると、吸殻を灰皿に入れ、そっと煙を吐く。
 僕は彼女の頭に軽く手を乗せた。

「絶対に完成させるよ」

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