「私、そろそろ戻らないと……」
「そうだね。一緒に戻るよ」
ロビーに掛かっている時計を見て、ほんの数分しか時間が経っていない事を知る。随分と長い間会話していた気がした。
入り口まで来て、少女はこちらに向き直った。
「それじゃあ、ここで失礼します。……何かすいません、変な言いがかりつけて」
随分しっかりした子だ。どこか冷静で思慮深さを感じさせる。もっとも、こう言う場だからそう見えるのかもしれないが。
「いいよ。実際僕も身内の葬儀で煙草を吸う人がいたら良くは思わないしね」
「だったら気をつけてください」
「すいません」
幼さを孕んだ少女の薄い笑顔は西川に似ていた。
「私、幸(ゆき)って言います。西川幸です」
「幸ちゃんか」さん付けでも、呼び捨てでもおかしい気がして自然とそう呼んだ。「曲、完成したら絶対知らせるよ」
「当たり前です」
彼女の背中を見送ってから、僕も静かに場内へ戻った。
「先輩、どこ行ってたんですか」吉岡が擦れた声を出す。
「ちょっとな、手洗いだよ。体調が悪くてね」
「大丈夫ですか?」こちらを心配そうに見つめる彼は、ふと僕の手元を見て首を傾げた。「その手帳は?」
赤いブックカバーに包まれた小さな手帳。
「……西川の、遺品だよ」
「西川の?」
あいつの音楽が詰まった手帳。
一人だけ、どうしてもこの手帳の事を話しておかねばならない。
通夜を終え、会場から出た辺りで吉岡や間宮が声をかけてきた。
「先輩。今度、飲みに行きませんか?」
「なんだよ急に」妙な事を言う吉岡に僕は眉をひそめた。
「何人かで集まって、唯を私達なりに追悼をしようかと思って。追悼飲みですね」
間宮の言葉に、そう言えばこの二人は特によく西川と飲んでいたと思い出す。
自分達なりの追悼。追悼飲みは、この二人らしい発想だ。
「そうだな。行けそうなら少しだけ顔を出すよ」
その返答に二人は顔をほころばせた。近くにいた他のサークルメンバーもホッとした表情を浮かべる。どうやら皆来るようだ。
追悼をする。それは、その人の死を受け入れ、心に留める準備を済ませると言う事だ。友達が死んだのに、それを追悼するために飲み会を開くなんて不謹慎だと思われるだろうか。早くも心を切り替えている、冷たい人間だと思われるだろうか。
でも違う。皆傷ついている。僕の様に心の中にしこりを抱いている。
ここにいる人間は西川の事をよく知っている。だからこそ、飲み会を追悼の場所にしようと思ったのだろう。
西川は確かにサークル内では敬遠されがちだった。
でも、これほどまでに自分の事を深く分かってくれている仲間を作っていた。なんだかそれが分かり、無性に嬉しくなる。
サークルの皆が追悼飲みと言う形であいつを送るなら、僕は僕なりの追悼をしよう。
「すまん、先に行っててくれないか。後で追いかける」
「えっ? どうしたんですか?」
「知り合いがいてな。ちょっと話したい事があるんだ」
じゃあ駅前で、とその場を抜けると僕は会場まで戻り彼女の姿を探した。流れ出る人の中へと目を凝らす。もう帰ってしまったのだろうか。と、丁度入り口から彼女が姿を現した。ふと目が合い、僕は軽く手を振る。相手も気付いて会釈した。
「待っててくれはったんですか?」
御影津さんは声を上げた。
「ちょっと話したい事があってね。今、いいかな」
「ええ、大丈夫です」目元が心なしか赤い。泣いていたのだろうか。
「ごめんね、急に、こんな時なのに」
「いえ。それで、どうしたんですか?」
「あぁ、ちょっと御影津さんに協力して欲しいなって」
「協力?」
僕は相手に悟られないように少しだけ深呼吸した。こう言う時に、こう言う事を頼むのは少しばかり緊張する。
「西川の作りかけの曲が見つかった」
御影津さんの顔が曇る。ほんの細やかな頬の動きだったが見逃さなかった。そのたった一つの表情の変化で、心が閉ざされているのが分かる。それでも、ちゃんと言っておきたい。西川と一緒に音楽に対して向き合っていた彼女に。
「唯の遺品って事ですか」
「あぁ。と言っても、たった一小節しか出来ていないけど。御影津さん、良かったらその曲を一緒に」
「大城さん」
僕の発言を制止させるように、彼女が言葉を被せる。
「やめましょう、その話」
か細い声だけれど、はっきりした物言いだった。
「大城さんも分かってるでしょ。音楽やってる人間がどう言う風に考えて曲を作るんか。一概にそうとは言えんけど、作り手はやっぱり何かしらの想いを込めてるんですよ。少なくとも、唯はそうでした」
予想していた返事だった。
「大城さんの言おうとしてる事は分かります。でも、あの子の作ろうとした曲を完成させたところで何になるんですか。紛いもんです、そんなん」
「分かってる。でも……」
「大城さん」諭すような物言いで、それでいて震える声で、切実な眼で、彼女は言う。
「唯は、死んだんです」
真っ赤に滲んだ彼女が放つ言葉が全てだった。
◯
御影津さんの言った事は、およそ正しい。
普通に考えれば、こんな曲を作るべきではない。遺された曲、それに着手すると言う事は、ある種の束縛を意味する。曲に感情移入し、構成を考え、出来る限り西川の意思を汲み取ってやる。きっと酷く精神を磨耗するだろう。それはいつまで経っても西川の呪縛から逃れられないと言う事なのだ。
それでもやはり僕はこの曲をもって彼女を追悼したいと思っていた。僕だけじゃなく、きっと幸ちゃんも。
ようやく家に帰ってきた時、時刻は夜の十時だった。部屋の中が随分と冷え切っている。外とあまり大差ない。
真っ暗な室内の電気をつけ、コタツの電源を入れた。コタツが温くなる前にスーツを脱ぎ、着替えを済ませる。コタツに足を入れようやく一息ついた。机に置かれた手帳を見て、少し考える。
どうして御影津さんだけに声をかけたのだろうか。吉岡や間宮、他のサークルメンバーに相談しても問題はなかったはずだ。皆、西川の良い仲間だった。
だけど、結局誰にもあの曲の話はする事が出来なかった。
分かっている。彼らはもう、早くも自分達の力で決別をしようと思っているのだ。それを妨げてはいけない気がした。
じゃあ御影津さんはどうだ? 彼女も独自に西川と決別しようとしていたんじゃないか? わざわざ声をかけて、妙な悩みの種を増やすことなかったんじゃないか?
もちろん彼女が西川と音楽と共にしていたと言うのもあった。
でも、それだけじゃない。
多分僕は無意識のうちに気付いていたのだ。
彼女は、御影津嘉世子はまだ西川に執着している。自分と同じ匂いのする人間だと。突然の事態に今はまだ現状を受け入れられずにいる。それでも無理くり自分に言い聞かせて西川の死を認めさそうとしている。
もし僕がこの曲を完成させたら、その時もう一度声をかけよう。
僕は何気なくスタンドに立てかけていたギターを手に取った。
シェクターのテレキャスター。もう随分と長いこと使っているからボロボロだ。音も変わりやすくなってしまった。一度メンテナンスに出すか、買い換えるかしないと駄目だ。音を作るのに苦労するが、それでも一番手に馴染んだギターだった。軽くチューニングをする。
「曲作りなんて久々だな」
僕は手帳の最後のページを開いて、例のフレーズを弾いた。静かな旋律が徐々に連なる曲だ。そのまま手探りでコードを探していく。
冷えた室内に緩やかで耳当たりの良いギターの音だけが響き渡る。
西川、お前は一体この曲で何を言いたかったんだ。
◯
進展がつかめないまま、一週間が経った。無為で乾いた日々は、まるで細砂の様にサラサラと流れてゆく。
西川の出棺はあっけなく終わった。通夜の時よりも多くの人が彼女を見送った。
親族の挨拶では幸ちゃんの姿も見られた。一瞬だけ目が合い、軽く会釈する。両親と一緒に居る彼女を見ていると、僕が抱いていた幸ちゃんの印象は少しだけ間違っていることに気付いた。
彼女は気丈な訳でも、しっかり現実を見据えているわけでもない。悲しみにくれる両親を前に、彼女は自分の感情を抑えなければならなかったのだ。そうしなければあの家族を支える人間はいなかった。
娘の最期に立ち会えなかったことで、西川の両親は深く後悔している。たった一つのきっかけがあるだけで壊れかねない両親を支えているのは、まだ年端も行かない高校生の女の子だった。
あの子の為にもどうにかこの曲は完成させたい。しかし、曲を形作るためにはあまりにも材料が少なすぎた。
カーテンも閉め切った真っ暗な部屋でギターを抱えていると、場違いな緩いメロディが流れてきた。携帯が着信しているのだと気付く。知らない番号からだ。
「もしもし」
「あ、大城誠さんのお電話でしょうか。先日もお電話させていただいた進路センターの者なんですけども」
「あ……」
卒業後の進路が決まったのであれば一度大学の進路センターへ顔を出して欲しいと再三言われていた。近々行こうと思っていたのだが、すっかり忘れてた。
「ご都合が付く日で構わないので一度大学の進路部へ来ていただきたいのですが」
「あぁ、そうですね。……はい、うかがわせていただきます。失礼します」
電話を切った僕は、カーテンの向こう側を見つめた。ここ数日は部屋に篭ってばかりで、コンビニ以外はどこにも出かけていない。外に出るきっかけが必要だった。
二月の半ばだと言うのに久々の外は随分と暖かく感じた。温い風が頬に吹きつけ、どことなく春を予感させる。空は青く、強い日差しが色濃く陰を落とし、木々を色鮮やかに見せた。桜の木は実を膨らませており、花の開花は目前だろう。
大学構内は春休みにも関わらず随分と人が多かった。高校生らしき姿も見える。
今日は何かのイベントだったっけ。不思議に思いながらピロティを通った。
噴水が設置されている緑豊かなピロティには大きな掲示板がある。その掲示板に張り出された紙を見て一喜一憂する人。
「そうか、今日は大学の合格発表か」
地元の人間はこうしてわざわざ大学まで足を運ぶらしい。僕は地元が京都ではないため書類が送られてくるまで合格かどうかわからなかった。郵送で合格書類が届いた時、自室のベッドで眠っていた僕を見て母が随分と呆れていた記憶がある。
こうして合格発表の光景を直に見るのは四年間で初めてだった。妙に新鮮だ。
何気なく群集を眺めていると、見覚えのある顔が目に入った。近づくと、相手もこちらに気付いた。
「あ、どうも、こんにちは」
そう言って西川幸は僕に頭を下げた。
「ビックリしたよ。まさかこんな所で会うとはね」
「私もビックリですよ。そう言えば大城さんもこの大学なんですよね」
「そう言えばとは酷いなぁ。一応先輩だよ?」
「ごめんなさい」
僕が笑うと、幸ちゃんも申し訳なさそうに苦笑した。そこでふと掲示板に目をやる。
「同じ大学にしたんだね」誰と、とは言わないでおく。
「はい。……親には別の大学にしてほしいって言われてたんですけど、やっぱりこの大学が良いなって。色々と話も聞いていたし」
「そっか。で、結果はどうだった?」
「落ちてたらどうします?」
「励ます」
「ずいぶん簡単に言うんですね」
「落ちてたり、まだ結果を知らない人間は『落ちてたらどうします?』なんて言わないと思ってね」
「あ、ばれちゃいました?」バレバレだ。
僕は掲示板を見ながら言った。
「合格おめでとう」
「ありがとうございます」
◯
時間が空いているとの事で、学食に足を運んだ。学食、とは言っても最近新設されたばかりのお洒落なカフェだ。普段は敬遠して別の食堂に足を運ぶが、幸ちゃんの様な女子高生はこちらのほうが好きではないかと思ったのだ。
「はい、紅茶とケーキ」
向かいに座る彼女の前に置いてやると、幸ちゃんは頭を下げた。
「すいません、奢ってもらっちゃって」
「いいよ、合格祝いだ。……安いけど」
「一言多いですよ」
眉を寄せて苦笑いをされる。
「それにしてもお洒落ですねぇ、ここ。学食って言うからもっと雑然としているかと思いました」
彼女は物珍しげに中をきょろきょろと見回す。初めて会った時と比べると随分と印象が違って見えた。
「最近出来たばかりなんだよ。他にもとんかつ屋とか、生協学食とか、職員学食、カレー屋さんにラーメン屋なんかもある」
「そんなにあるんですか? さすが私立」
「だてに学費をふんだくってないって事」
僕らは少し笑った。
「大城さん、曲の方、どうですか?」
来たか。そろそろされるだろうと思っていた質問だった。あまり良い返事が出来ないだけに、僕は頭を掻く。
「正直難しいよ。煮詰まってる」
彼女の表情が少し曇るのが分かった。落胆、とは違うか。浮かぶのは不安だろう。
「曲作りってやっぱり難しいんですか」
「いや、ある程度形にするのはそう難しくはないんだよ。コード進行にもパターンはあるし、一つコードが決まってくると次のコードも繋ぐだけなら大体限られてくる」
「じゃあどうして?」
「曲のテーマが一向に見えてこないんだ。君のお姉さんが何をイメージして、どんな物を作ろうとしたのか、それが分からない」
「でも、そう言うのって完全に汲み取るのは不可能じゃないんですか?」
「そうだね。だけど、この曲はただ完成させるだけじゃ意味がない。それは幸ちゃんも分かるだろ?」
僕の問いに彼女は沈んだ面持ちで「まぁ……」と曖昧に頷いた。
出来る限り西川の感情を、想いを理解してやりたい。
「でもやっぱり曲を作るって大変そうですよね。お姉ちゃんも家で曲を作るときによく悩んでました」
「西川が?」
「歌詞の表現で悩んだり、メロディが浮かばなかったり、よくあったみたいです。音作りや、曲の構成も」
「まぁ、いいものを作ろうとしたらそれなりにこだわりも出てくるし、悩みはつきないんじゃないかな。他のバンドの音楽に影響されたり、学んだ事を踏襲しようとしたり……」
何かを作ろうとするのは自己表現の一種だ。
じゃあ彼女は一体どんな『自己』を表現しようとしたのだろうか。
西川の書いたノートには彼女の作った曲が他にも書かれている。
日常の中に眠る美しい情景から得た不安や希望。
それらが曲のヒントになるとは考えがたかった。一貫したテーマがちゃんとあるように見えるが、一つ一つの題材から物語っている事がまるで異なっているからだ。
「大城さん、お姉ちゃんのライブってどうだったんですか?」
「西川の?」
急な質問に思わず眉根が寄る。
「エモかったな」
「エモ、何ですか?」
「エモーショナルな演奏だったよ。感情的で、曲を音だけじゃなくて体でも表現してた。泣きそうな顔をしたり、叫んだり、とにかく見ている側に訴えてくる物はあったよ」
「へぇ……」
「幸ちゃんはお姉さんの演奏、見た事なかったの?」
「はい。受験勉強もあったし、サークルでやってるイベントにも見に行く機会がなくって。でも、サークルの話はよくしてもらいました。本当に楽しかったみたいで、二人で話す時は毎回聞いていた気がします」
意外だった。そこまで西川がサークルを好いていたとは思っていなかったから。
「でも、その話の中でもやっぱり一番耳にしたのは大城さんの名前でしたよ」
「僕?」
思わず自分を指差して問う。
「消化剤撒いちゃった話とか、合宿先のロビーで部員が付き合った現場を一緒に目撃しちゃった時とか、他にも学祭やサークルのライブイベント、様々な話に大城さんが関わってました」
「まぁよく一緒に行動していたからなぁ。一時期付き合ってるんじゃないかって噂されたっけ」
「付き合ったりとかしなかったんですか」
幸ちゃんは爛々と目を輝かせた。
年頃の女子らしく、彼女もこう言う話が好きなのだろう。
だが悪いけどその期待には応えられない。
「そういう話にはならなかったよ」
「何だ、そうなんですか……」
彼女は風船が萎むみたいに少し身を引いた。
多分、僕達はお互いをそう言う相手として見ていなかった。
「大城さんにとってお姉ちゃんってどんな人だったんですか?」
「そうだなぁ……」
僕はそっと生前の西川に想いを馳せた。
僕にとって西川とは自分に近い感覚を持つ人間、同調できる相手だった。後輩や友人と言うよりは相方と呼ぶほうがあっているかもしれない。
でも、そうなったのはいつからだろう。
「最初はとにかく良くも悪くも目立ってたかな。入部当時は目がギラギラしてて、誰も寄せ付けようとしなくてさ。狂犬みたいだった」
「お姉ちゃんがですか?」
「意外かい?」
尋ねると彼女は何度も頷いた。
「だって高校の頃のお姉ちゃんでは考えられませんでしたから。それに、大学に入ってからもそんな様子は一切なかったので」
「そっか……」
新しい場所に立って、それまで自分が行ってきた人付き合いの方法や立ち回りが急に分からなくなる事はある。
周囲が馴染んでいく中、自分だけが取り残されて行く気がして不安と焦燥を加速させる。着地点が分からないまま空中をさまよっていても、家族にはそれを悟らせまいとしていたのだろう。
ふと、昔の西川の姿が浮かんだ。飲み会に参加してもさほど馴染めず、馴染もうとしておらず、なんであいつはここに居るんだと誰かが馬鹿にするように鼻で笑っていたのを覚えている。
地味なタイプではないのに誰かと一緒に居ようとはせず、ふてぶてしい印象すらうける彼女は入部時から随分目立っていた。あれはただ不安から自分を守ろうとしていただけなんだ。
その光景は連鎖的に僕にある記憶を思い起こさせた。思わず、はっとする。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっとね」
僕は鞄を開くと預かっていた西川の手帳を取り出し、最後のページを開いた。記憶どおり、曲の横に日付が載っている。特に気にしていなかったが、これが重要な意味を孕んでいると気付いた。
二月五日。あの日の日付だ。