雨が、音楽に似ていた。
一本一本弦を弾き、着実に連なるアルペジオ。
静かなワンルームマンションの一室に、まるで波紋のようにそれは広がる。
空には暗雲が立ちこめ、電灯のついていない部屋を一層暗くした。
携帯の時計を見ると、もう夕方の六時だった。仮眠のつもりが随分と眠ってしまったらしい。起き上がるのと同時に携帯が震えた。バイブレーションを見てそういえばマナーモードを解除していなかったと思い出す。
開けてみると西川幸(ゆき)からの電話だった。
「もしもし?」
「あ、大城さん。起きてます?」
明るい声。後ろからは、こちらと同じ様な雨音。
「今起きた」
「寝すぎですよ」
「そんなことよりどうしたのさ、わざわざ電話なんか。今日スタジオだっけ」
「いえ、今日は入ってないですよ。近くに来たところで雨が降ったんで、雨宿りさせてもらおうかと思いまして」
「あぁ、そう言う事か。良いよ、別に」
「やったぁ、それじゃあお邪魔します」
電話が切れると同時に玄関の扉が開いた。わざわざ家の前で電話をかけてきたのか。図々しいのか遠慮しているのかよく分からない。ドタドタと足音が近づき、すりガラス越しに幸の姿が浮かんだ。
「いやぁ、困ってたんで助かりました」
リビングに顔を出して開口一番、幸は悪びれもせず言った。肩にリュックを掛け、手にはコンビニの袋を持っている。濡れてはおらず、雨が降ったから避難したと言う感じではない。
「よく言うよ。最初から来るつもりだったくせに」
「あはは、ばれました?」
「ばればれだ。まぁ、座りなよ」
「それじゃあお邪魔します」
幸はコタツに足を入れた。僕は部屋の電気と、コタツの電源をつける。コタツの稼動音を確認した後、そのままキッチンへと向かった。
「もう春が近いと言ってもやっぱりまだ寒いですねぇ」
幸は両手もコタツに突っ込む。
「何か飲む? ココアとコーヒーと紅茶があるけど」
「あー、じゃあココアでお願いします。とびきり甘くしてください」
「図々しい奴だな」
「好意を素直に受け取る人間、と言ってください」
「口も減らない」
すると幸はむぅと口を尖らせた。いつものやり取りだ。
鍋を取り出すと、そこに牛乳を入れた。少し量を多目にし、火を掛けて沸騰するのを待つ。電子レンジで作ってもいいのだが、こちらのほうが熱が通って美味しい。
ガスの燃焼音と、コタツの稼動音、それに雨の音が静かに響く。
以前もこんな状況を経験した。大学を卒業する前だ。
牛乳が沸騰しそうだったので僕はマグカップを二つ取り出した。幸の分に少し多くココアパウダーを入れ、牛乳を上から注ぐ。
「はいどうぞ」
幸の向かいに座りながら机にカップを置いた。
「あ、ありがとうございます。……あのう、生クリームは」
睨みつけると彼女は逃げるように視線を逸らせた。呆れて肩が落ちる。こう言う愛嬌があるからか、幸はすぐに色んな人と打ち解けた。ムードメーカーと言うやつだ。
ココアを啜りながら、しばらく雨音に耳を傾けた。甘い香りが体を満たす。
「やっぱり雨の日は大城さんの家ですよねぇ」
「何だよそれ」
「いやね、雨が降るとなんだか大城さんの家に来たくなるんですよ。妙に落ち着くと言うか、癒されると言うか」
「その為にわざわざ来たのか?」
「すいやせん」
幸はおどけて肩をすくめる。
「雨が降りそうだなって思ったら、勝手に足が大城さんの家に向かってまして。ほら、大学から近いですし」
「卒業してから一度も引っ越してないからな」
幸はここから歩いて十分ほどの大学に通っている。僕が大学を卒業したのは丁度今から三年前。幸と同じ大学に通っていた。つまりOBだ。
「雨が降ると僕の家に……ねぇ」
昔、同じ事を言われた。懐かしいけれど、風化しない特別な記憶だ。僕にとって、いや、僕たちにとって未だ『過去』になっていない人物が言ったのだ。
「幸ちゃんって今何回生だっけ?」
「三回生ですね。春で四回生です」
「じゃあ就職活動か」
「そうなりますね。私はさっぱりですけど」予想通りの返事だ。
「どこか希望してるところとかないの?」
「特には。と言うよりも、就職しようかどうかを迷ってる段階ですね」
「え、就職しないの?」
「だって身近に大城さんと言う例がいますから。音楽で食べていけるのかな、なんて夢を見ちゃったりしちゃいますよ」
僕の場合は音楽で食べて行ってると言う大層なものじゃない。時々、小さなライブハウスのスタッフをしたり、演奏のサポートをしたり、バーで演奏をしたり、本当に細々とまともな就職口も探さずにやっているだけだ。
「言っとくけどこの生活楽じゃないよ? ほとんど遊べないし、先もない。嘉代ちゃんを見習ったほうが良いと思うけどなぁ」
「あ、そう言えばさっき嘉代子さんから連絡ありまして」
「嘉代ちゃんから? 仕事で忙しいんじゃないの」
「伝言頼まれたんですよ。大城さんへ」
「何て?」
「さっさと曲作れ、だそうです」
その言葉に二人とも笑った。
「さっさと曲、ね。もう次のライブまで時間ないもんな」
僕は手を伸ばすと背後のスタンドに立て掛けてあったギターを手に取った。軽くチューニングをして、もう随分と弾きなれたあのフレーズを弾く。
僕は雨を見る。三年前と同じだ。情景も、よく似ている。違うとすれば目の前に居るのが彼女ではなくその妹であると言うことだ。僕はフレーズを弾く。幸は目を閉じ、静かにココアを口に運ぶ。
音楽を続けていればまた会えると言う言葉を、僕はいまだに信じている。
◯
底冷えする京都で過ごす、四度目の冬だった。
隙間風が入り込む寒いワンルームマンションの一室で、僕はギターを弾いていた。暇な時には大抵こうしている。大学卒業間近で、他にやる事がないからだ。
こたつの上には先日出たばかりの内定通知書が置かれていた。内定先は地元にある小さな食品会社。みやげ物として販売している特産品が売りらしい。
社会人までの執行猶予。
言い方は悪いが、僕はこの時期をそう捉えている。
電気がついていない部屋が急に明るくなり、窓の外を見た。この季節にしては珍しいくらい強い太陽の光だ。空に浮かぶ雲は厚く、その影は濃い。そのせいか、青空が色濃く見えた。こういう日は無性にどこかに出かけたくなる。もっとも、外は寒いから出ないが。気持ちの上は、というやつだ。
その時、携帯電話が震えた。そう言えばマナーモードを外すのをすっかり忘れていた。
「もしもし」
画面も見ずに電話に出て、しまったと思う。変な電話だったらどうしよう。
「先輩、吉岡です」
「なんだ、吉岡か」
ホッと胸を撫で下ろす。
吉岡は僕の所属している音楽サークルの後輩だった。いつも馬鹿ばかりしていて、サークル内のムードメーカーでもある。
「大変です」
「何だよ、どうした」
またパチンコで金でもなくしたか、などと邪推する。
「西川が、事故にあったって」
「へっ?」
一瞬、何を言っているのかわからずに間の抜けた声が漏れた。
「今、間宮から連絡が入って。西川がバイクで轢かれたって」
「変な冗談言うなよ」
「こんな下らない冗談言うのにわざわざ電話しませんよ」
全身の肌が粟立った。呼吸も早くなる。僕は相手に気付かれないようゆっくり深呼吸した。
「西川は今どうしてる?」
「病院に運ばれたらしくて。俺も行くんで、先輩も来てください」
「すぐ行く。場所は?」
総合病院の名前を言われ、現地で吉岡と落ち合うことになった。原付で道路を走る途中に西川の顔が思い浮かぶ。この前会った時はあれだけ元気だったじゃないか。どうせ大したことない。
昔から勘が良い方だった。多分大丈夫だろう、これは多分こうなる、そんな根拠のない発言が当たる事はよくあった。だから大丈夫だと口にすればきっとその通りになる気がした。
でも何となく分かっていた。どこか奥底で、西川は助からない気がした。
病院の入り口に吉岡の姿があった。合流し、中に入る。
手術室の前にサークルメンバーの姿があった。その部屋で西川が手術されている。
「大城さん、吉岡君……」
手術室正面の椅子に座っていた間宮が立ち上がる。
「家族には連絡したのか?」
僕の言葉に間宮は頷く。
「唯の家族には大学側から連絡が行ってると思います。でも、急な事だからすぐに来れるかは……」
「西川は?」
「分からないんです。唯、血だらけで、轢かれた時全く意識がなくて。……信号は確かに青だったんです。でも、バイクが突っ込んできて……」
話すうちに状況が蘇ったのか、泣き腫らした彼女の目に再び涙が浮かんだ。僕は彼女を椅子に座らせると、サークルメンバーの顔を一人一人眺めた。西川と仲の良かった面子だ。全員沈んだ顔をしており、震えて泣き出している子もいた。
「とにかく落ち着こう。きっと大丈夫だよ……」
場をとりなす為に、とりあえず言っておく。気休めでしかないが、言わないよりマシだ。
十分、二十分、消え入りそうな時間を、呼吸が止まりそうな想いで過ごした。西川の家族はまだ姿を見せない。平日の真昼間だ。仕事で、連絡がつかないのかもしれない。
不意に、手術中と書かれた電灯が消えた。全員がハッと顔を上げる。扉が開き、中から医者が出てきた。テレビの中でしか見た事がない光景に、嫌な予感がする。
医者は、沈んだ面持ちで首を振った。
目の前で立っていた吉岡が崩れ落ち、女子だけでなく、その場にいた男子からも、泣き声が上がる。
脳裏に、西川の出すギターの音が響いた。ジャズマスターの特性を生かした、哀愁を孕んだ音。憂いを帯びた表情で、Aadd9のコードを弾く彼女の姿。
これで彼女のギターが二度と聴けなくなる、その事実が酷く物悲しかった。