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三十度の雪 前編

 私が生まれた年、街には例年にないほど大雪が降ったそうだ。

 深々と雪が降り続く、静かな夜の日。
 その分娩室は異様なほど静寂に包まれていた。
 たった今、赤ん坊が生まれたとはとても思えないほどに。
 約十時間ほどの格闘を得て生まれたその赤ん坊は、誰もに死を思わせた。

 生まれたての赤ん坊は、まるで雪の様に真っ白な顔をしていた。
 泣き声すらあげていなかった。
 そして──

「冷たくなってる……」

 私を抱き上げた助産師は、静かにうな垂れた。その言葉に、私の父は膝をつく。
 静まり返った室内に一瞬にして絶望が満ちる。
 誰も喋らなかった。まるで通夜の様に、重い空気が流れる。
 そんな中、私の母は、静かに言った。

「その子を、抱かせて下さい」

「でも、柊さん……」

「いいから」

 その声は、はっきりしていて芯があった。

「抱かせて下さい、その子を」

 その場にいる誰もが気圧されたそうだ。
 助産師は、静かに私を母に預けた。

「ふふっ」

 母は私を抱くと、静かに緩やかな笑みを浮かべた。

「あなた」

「何だい?」

「この子、ちゃんと生きてる」

 母に抱かれた私は目を瞑り、静かに呼吸していた。
 私の体温は、三十度しかなかった。

 ◯
 
 真っ白な肌と、冷たい体温、それに雪が降る日に生まれた事もあり、私は雪と名付けられた。
 柊 雪(ひいらぎ ゆき)。
 それが私の名前。
 名付けたのは母だ。

「よろしくね、雪」

 生まれたばかりの記憶なんてもちろん私は持ち合わせてはいなかったが、そのとき頬を撫でた母の指の温かさは何となく覚えている気がする。

 人間の体温は三十六度を下回ると、生きる上で様々な弊害が生じるのだという。
 三十四度ともなると生命の危機と言える状態なのだそうだ。

 だから、三十度で生きている私はもちろん異常なわけで。
 低体温症に見られるような症状も、免疫力の低下もなく、健康体そのものだった私が世間の注目を集めるのは時間の問題に思えた。
 産婦人科の先生が協力してくれなければ、今頃私は人間モルモットになっていてもおかしくはなかったと思う。

 そんなわけで、異常な体質を持って生まれた私だったが、ごくごく平凡な家庭で平凡に育つ事が出来た。
 三歳にもなるとそれなりに言葉も話せるようになっていた。

「ほら、雪ちゃん、パパって呼んでごらん」

「お父さん」

「あっちはママだよ、雪ちゃん。ママって呼んでごらん」

「お母さん」

 両親は自分達をパパ、ママと呼ばせようとしていたみたいだが、私はお父さんお母さんと呼んでいた。
 そのため両親が自分を呼称するときはパパ、ママ。
 当の私はお父さん、お母さんと呼ぶという珍妙な状況になっていた。

 母はきれいで穏やかな人だった。
 もし母性を塗り固めた人間が存在するのであれば、それは母なのだと父は言う。
 確かに母は聖母の様に穏やかな人で、いつも私や父の話を静かに聞いては、静かに笑みを浮かべていた。

 そんな母は、学生時代、非常にモテたのだと言う。
 一日四十人近くに告白された事もあるのだとか。
 まるで漫画だ。

「どうしてお父さんにしたの」

 小学生の頃、一度だけ母に尋ねた事がある。
 母は微笑みながら答えた。

「パパとは大学が一緒だったんだけどね、他の人にはない、運命を感じたの。大体どこに行っても会うし、電話番号教えてないのに間違い電話でたまたまうちに電話してきたり、夜中に窓を開けたら偶然道を歩いていたパパがそこに居たり」

「いやぁ、当時の法律が厳しかったらヤバかったね。あはは」

 危ない危ないと父は笑った。

 父は陽気でひょうきんな人だった。
 メガネをかけた少し頼りない感じの父は、マイホームパパであり、いついかなる状況でも家族との約束を優先した。

 たとえ得意先の接待だろうが、会社の役員と飲み会であろうが、社長から出世を賭けたゴルフに誘われようが、父は家族の行事をないがしろにする事はなかったし、かと言って仕事をクビにもならなかった。

 また、父は非常に子煩悩な人で、とにかく私とお風呂に入りたがった。
 母がストップを出さなければ、多分私は中学生になっても、高校生になっても、父とお風呂に入っていただろう。

 じゃあ、何故私が父とのお風呂を拒もうとしなかったのか、だが。
 話を幼少期に戻そうと思う。

 四歳になった頃の事だ。私は幼稚園に入園した。
 最初の方はそれなりに友達もいたし、一緒に砂遊びなんかもしていた。
 だが、ある日誰かが言い出した一言がきっかけで、私には友達と呼べる人がいなくなった。

「雪ちゃんって全然笑わないね」

 それまでの人生で、私は笑った事がなかった。
 泣いた事も、怒った事もない。
 豊かな家庭で育った子供が一般に持ち合わせているであろう感情を、抱いた事がなかった。

 嬉しいや、悲しいと言った感情が一体どのようなものなのか、まるで分からなかったのだ。
 そのために、何かをする事に対して嫌だと思う事もなかった。
 当然、父とお風呂に入る事も拒まなかった。

 多分それは体温が三十度であったためにもたらされたのだと、私は思っている。

 そして、そんな私の性質は、冷たい体温と共に避けられるようになった。
 噂は保護者にまで広まり、遊び相手は徐々に減っていった。

 私と遊んでくれたのは、同じさくら組だった芥(あくた)君だけだった。

 芥君はわんぱくで、家庭に問題があり、いつも誰かと喧嘩しては問題視される子だった。
 力も気も強く、先生や保護者からは目の仇にされていたし、他の子も怖がって近寄らなかった。

 一人で砂遊びをしていた私の近くに、芥君は度々寄ってきた。
 私が逃げないで遊びを続けていると、彼は言った。

「お前は俺の事怖がらないのな」

「怖いとか、よくわからない」

「そっか」

 何故か芥君は私の言葉を聞いて笑みを浮かべた。
 そして、砂のトンネルを一緒に作ってくれた。

「うち、かーちゃん居ないんだ。死んじゃったから。今はばーちゃんと暮らしてる。でも、ばーちゃんも体が悪いから、あんまり俺の面倒見てらんないんだ」

「うん」

「多分、かーちゃんが生きてても、お前と遊べって言ってただろうな」

「なんで」

「俺の親だから」

 よくわからないが、なんとなくわかる気がした。



 小学校でも私の状況は変わらなかった。
 幼稚園が一緒だった子が多かった為だろう。
 再び良くない噂が流れ、次第に誰からも話しかけられなくなった。

 芥君も同じ小学校だったが、クラスが別れてしまい、私の孤立は本格化しつつあった。
 両親が私の現状を知ったのは、小学校で開かれた最初の参観日に来てからだ。
 有給を取って学校に来た父が、クラスの妙な雰囲気に気付いたのだ。

 小学校での私は、まるで腫れ物みたいな扱いだった。
 そんな子供が居る教室の空気と言うのはやっぱり異様で、どれだけ隠そうとしても教師や他の生徒達から少しずつ漏れ出る。

 参観日が終わった日の夜。
 リビングで神妙な顔をして父は私に尋ねてきた。

「雪ちゃん、パパに言ってごらん。イジメられているんだろう?」

 イジメと言うものの定義すら曖昧だった私は、その言葉に首を傾げた。
 父はそんな私を見て、苦虫をすり潰したような顔をする。

「ママ、明日担任の先生に抗議しよう。雪をこれ以上辛い目に遭わせるわけにはいかない。状況の改善が難しかったら、引越ししたっていい。雪が安心して通える学校にしよう」

「そうねぇ……」

 母は父の提案に、どうすれば良いか判断しかねているようだった。
 そして、ゆっくりと私の目を見て尋ねてくる。

「雪は今の学校、嫌?」

 母の言葉に、私は首を振った。
 私にとって学生生活は平穏そのものでしかなかった。
 今まで私の現状に両親が気付かなかったのも、私が何事もなく日々を過ごしていたためなのだ。

 でも、それだけじゃなかった。

「芥君が居るよ」

 別に私は一人じゃない。どんな時でも、芥君は助けてくれる。私には何故かわかった。
 母はそんな私を見て「そっか」と微笑んだ。

「あなた。雪は大丈夫よ」

「何言ってるんだ! だって現に雪は」

「大丈夫」

 その顔は……言葉には。
 確信めいたものがあった。

「雪は、大丈夫」

 結局、私は転校する事なく小学校に通い続けた。
 父は不服そうだったが、我が家の最終決定権は大体全て母にある。

 担任への抗議も行われなかった。
 下手に騒ぐ方が良くないと考えたのだろう。

 どうやらそれは功を奏したようで、私は平穏無事な(孤高の)学生生活を送る事が出来た。

 状況が変わったのは小学校四年生になってからだ。

「うわっ、柊が手についた!」

「柊菌じゃん。手ぇ腐んじゃねぇの」

 男子の間で私に触れると菌がつくと言う、よく分からない遊びが流行し始めたのだ。

 登下校時も、体育の授業中も、色々な男子が私の頭や背中をタッチしては擦り付け合うと言う行動を行っていた。
 不愉快と言う感覚はなかったが、不可解ではあった。

 そして、より厄介なのは女子の方だった。

「可愛い子ぶってんじゃないわよ」

 クラスの中心的な女子生徒達から、何故かやっかまれるようになったのだ。
 暴力を振るわれる事はなかったが、放課後、教室で囲まれて罵られたり、通り過ぎ際に舌打ちをされたりと、形に残らないような嫌がらせが始まった。

 非常に陰湿なものだったが、特に何も思う事はなかった。
 ただ、人から嫌われていると言う自分の現状を察しただけだ。

 放課後まで散々罵倒され、教室から出る事も許されず、いつも下校時刻ギリギリにならないと帰らせてもらえない。そんな日々が続いた。

 事実を話すと父がまた発狂すると思ったので、家では「友達が出来て、一緒に遊んでいる」と言っていた。
 学校でされたイジメの体験談を上手く改変して、遊んだ話として聞かせると、両親は笑みを浮かべた。

 そんな生活が、半年近く続いた。

 冬が近付いた日の帰り道。
 その日も下校時刻まで帰らせてもらえなかった私は、暗くなった道を一人で帰宅していた。

 すると、目の前に見知らぬオジさんが現れた。
 その道は神社に繋がる通りで、人の気配がまるでなく、周囲には私とそのオジさんしかいなかった。

 オジさんが現れたとき、何となく普通の人ではないと気付いた。
 マスクとサングラスをかけたその人は、季節的に着るにはまだ少し早いであろう分厚いロングコートを着ていた。

「お嬢ちゃん、オジさんの大切なもの、見てくれるかい?」

 オジさんは私の進路を塞ぐように立ちはだかると、静かにそう言った。
 特に断る理由はなかったので首肯する。
 するとオジさんは息を荒げながらコートを前側を開いた。

 オジさんは服を着ていなかった。
 当時の私はオジさんの行動の意味が分からず、どうリアクションを取ってよいものか分からないでいた。

 すると、オジさんは私の手を取って「オジさんの大切なもの、触ってくれないかな」と言いながら私の手を掴んで陰部に持っていこうとした。

 特に断る理由はなかったが、本能的にあまり良くない事なのだと気付いていた。
 でも、抵抗すべきかどうか分からなかった。

 もう少しで私の手がオジさんの陰部に触れそうになったとき、不意にオジさんの頭が揺れ、うめき声を上げてその場に倒れた。
 何が起こったのか分からないでいると、角材を持った芥君がオジさんの向こう側から姿を現した。

「ぼさっとしてんな!」

 芥君は角材を投げ捨て、私の手を取って走り出した。

 まるで事態が飲み込めなかったが、何となく芥君に手を引かれるまま、全速力で走った。
 ようやく人通りがあるところまでやって来ると、芥君は繋いでいた手を放してくれた。

 そして、思い切りげんこつを私の即頭部に叩き込んだのだ。
 感情はないが、痛みだけはしっかり感じた。

「あんな所を一人で歩く奴がいるかよ!」

 恫喝する芥君の声は、震えていた。

「ごめんなさい」

 わけも判らず頭を下げる私を見て、芥君はガックリと溜め息を吐く。

「お前なぁ、俺があそこ通らなかったら、何されてたか分かんねぇんだぞ」

「……そうなの?」

「そうだよ!」

 芥君は大きな声でそう言うと、私の手を再び掴んだ。

「来いよ。送るから」

 有無を言わせない口調に「うん」と私は頭を下げた。

「お前、何でこんな遅い時間に帰ってたんだよ」

「芥君は?」

「お使いだよ。ばーちゃんの。晩飯買いに行くとこだった」

「そう」

「お前は」

「クラスの子が帰らせてくれなかった」

「遊びで?」

「違う」

「じゃあ、イジメられてんの? お前」

「多分」

「そっか……」

 芥君はそれ以上、何も言わなかった。

 家に帰る頃にはすっかり真っ暗になっていて、両親が凄く心配した表情で私を出迎えてくれた。

「おじさん、おばさん、ごめん。遊びに夢中で、俺が雪を連れまわしちゃったんだ」

「そうだったのかい。おじさん、てっきり雪に何かあったのかと思って、警察に行こうかと」

「本当にごめん。ごめんなさい」

 芥君は私を庇って何度も頭を下げてくれた。
 父も「良いんだ。二人とも無事ならそれで」と胸を撫で下ろしていた。

「芥君、本当にありがとうね。パパ、車で送ってあげたら?」

「そうだね。そうしよう」

「いいよ。すぐ帰れるから」

 芥君はこっそり私にウインクすると、止める間もなく身を翻して走って行った。

「元気な子だねぇ」

 父が呑気な声を出す。

「雪、明日、芥君にちゃんとお礼をする事。良い?」

「うん」

 母の声は、多分何かあった事に気付いていたと思う。

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