数ヶ月に1回、ある方の小説講座に行くようになり、描写や魅力的な話、キャラ作りを学ばせて頂くようになってから、とうに一年が過ぎている。少しは小説というものを分かってきたように思えたのに、今回ひとつ書いていて、まだまだだと思い知らされた。
今回取り掛かっているのは、1000字程度の掌編だ。限られた文字数の中でどれだけ表現出来るか、言ってみれば修行みたいな事をしている。まずは文字数を気にせず書き出して、それから推敲する。不要な描写、省略できるところ等を削って削って、ちょいちょいと修正を加えて、完成とした。
私には読書家の姉がいるので、まずは彼女に読んで貰った。ラインに貼り付けて、暫くしたら、既読の表示がついた。
既読を確認してから、20分。姉からのラインは返ってこなかった。
感想を貰うまでは、いつだって心が落ち着かない。そわそわしながら返事を待っていたら、一言、なんか書き方変わったね、とだけ、返してくれた。
あまり良い感触ではないようだった。ただ、私も薄々気づいていた。今回の作品、なんだか味が薄い気がする、書きたいことを書いたはずなのに、それがぼやけてしまっているように感じた。
味気ないかな、と姉に訊いてみると、うん、ストレートだね、と返された。ストレートすぎて、小説としての面白味が薄いということだと、何となく理解した。
ストレートに書いているのに、どうして伝わらないのか。私はちょっと混乱した。今回の作品は私の実体験に基づいているので、書いた描写に嘘は無いはずだと思い込んでいた。しかし、それが間違いの元だった。
堪らなくなって、私はこれこれこういう気持ちを伝えたかったんだけど分かったかな、と訊いてみた。姉は素直に返してくれた。それはちょっと分からなかった。置いてきぼりにされたみたいだった、と。
要するにだ、私は、私自身の感情を分析する手を、知らず知らず緩めていたのだ。
嫌だな、とか、悲しいといった感情には種類がある。その『どうして、どんな風に嫌なのか』というところまで掘り下げず、感情の上辺だけを掬うから、読者がいまいちピンとこないのだ。
そう思うと、私が『伝えたかった気持ち』が、何だか作り物のように、もっと言えば嘘に見えてきた。
知らない間に、嘘を書いていた。なんだか不思議な気持ちだった。
自分の感情のはずなのに、ちょっとでも分析を緩めるとたちまち嘘をつく。この事実が不思議で不思議で、脳の神秘、なんて言葉まで浮かんだ。大げさだ。
自分自身でさえ、ちゃんと話を聞いてあげないと嘘をついて、見栄を張る。見栄っ張りな文章は、書いた本人は気持ち良くても、読む方はうんざりするだろうに。
人に気持ちを伝えたいのなら、自分自身、その『気持ち』に真っ向から対峙して、理解してやらなければいけないと、そう思った。