井上靖の『氷壁』、『敦煌』他を読んだ。
芥川賞作家としては確かにドラマを描くのが上手く、ストーリテラーとしての才能は高いと思った。
純文学と風俗小説の間の中間小説と言われたらしいが、現在の眼からみたら、十分に純文学だろう。
『氷壁』を指して中間小説というらしいが、確かに材は耳目を当時集めた実際の事故を題材にしているとはいえ、結婚生活に飽き足らないヒロインは、『テレーズ・デスケイルー』を下敷きにしているとわかるし、主人公を悲劇においやるの彼女はファム・ファタ―ル(運命の女)として造形されているのもわかる。
芥川賞を当時最年少で受賞した「蛇にピアス」は、谷崎潤一郎の「刺青」の本歌取りだったことを思えば、「テレーズデスケイルゥ」を取り入れた「氷壁」を大衆小説というには当たらないと思う。
遠藤周作のことを武田泰淳が、「あなたはインテリだ」といったという話を仄聞したので読んでみたが、なんのことはない。武田泰淳の小説ほうがよっぽど難解である。
もはや、サルトルを市民が読む時代ではない。
自民党総裁選に担ぐのは誰がいいとか、この人がでたら自分がナンバー1ではなくなるから嫌だといっているとか。80近い人たちがそんなことをいうのを想像したら、もううんざりする。
東大から名誉教授の申し出を断った漱石を思えば、文学をやっている方がずっと健全である。
と思ってやってきたが、結局耳を貸すのは、明日役立つかどうかということばかりで、文系の学問というものはどんどん隅に追いやられていく。
久しぶり20年以上前の文学書を読んだらしかし、文学用語ばかりでうんざりした。だれも読まないよって思った。
もはや、サルトルを読む時代ではない。
中間小説まで降りないことには、現代の小説家はやっていけないだろう。
それを文学の危機とみるか、好機とみるか、どうか。