司馬遼太郎の『関ケ原』『殉死』を読んだ。
石田三成を視点に書いた『関ケ原』。「関ケ原」について、私は歴史的事実しかしらず、光成という人物、性格などもよく知らない。知っている事実と言えば、徳川方、すなわち東軍が勝ち、それから15年後に豊臣秀頼が大阪夏の陣で殺され、徳川幕府を開いたというくらい。大坂夏の陣に旗揚げする際の、家康の主張、つまり大義名分は、難癖に近いものだったとかいうくらいだ。
それで知っているとは言えないと思うが、大半の人が、おそらくそれで足りている、知っているとみなしていると思う。
恥ずかしい話だが、光成が関ケ原で戦死したのかということもしらなかったし(冬の陣、夏の陣で従軍していないのだから、そのころにはいなかったという予想はできても)、秀頼や淀君が積極的に西軍に味方したのかどうかもしらなかった。
結論から言うと、現代の私たちから見れば奇異に思うことかもしれないが、秀頼(幼すぎるからその後見人たる淀君)は、より徳川を信用していたような節があることだ。西軍に身を寄せながらも、従軍には積極的でなかったりする場面はみられる。
力を持つ家康(東軍)が裏切らない限りは、安泰だと考えたのか、真偽のほどはわからない。しかし、ここで反東軍の旗色を鮮明にしてしまうと、西軍が敗れた場合、家康と対峙せねばならなくなる。一家断絶の危機になる。
そうした計算からも、秀頼や淀君があまり積極的に関ケ原にかかわった事実が、少なくとも司馬遼太郎の『関ケ原』を読む限り言及がない。
物事の道理としては、確かに光成側に理があるのであり、天下人たる豊臣家を守るということを行ったのは、光成だということは間違いない。
ただ、天下人になってからの秀吉の行動は、朝鮮出兵をはじめとした少々、常軌を逸したとも思われるほどのものであり、民草は疲弊しており、人心が豊臣政権から離れていたというのは、よくわかった。
加えて才走った光成は、人の否を暴き立てるところがあり(ついた役職柄そうならざるを得なかったのであろうが)、光成は不用意に敵を作ってしまった。
対照的に家康は、最終的な決定権は維持しながらも、常に合議制をしき、合議制にすることで、「参加型」の政府を作り上げた。
調略なども平気で行う人間ではあるけれども、おそらく部下が付いていくのはどちらかといえば、老獪な家康の側だっただろうとは容易に想像がつく。
邪推だが、自分が天下をとる布石として、豊臣方に嫌われ者の光成がつくように、家康が仕向けたのではないかとさえ思えてくる。そうすることによって、福島正則や加藤清正のような豊臣家子飼の重臣が徳川方につくからである。
司馬作品はサラリーマン小説としても多く読まれたのではないかというのは、山口瞳の解説にあったが、おそらくはそうだろう。
人の上に立つ人間とはという視点が、司馬作品の性格上常にある。実際の政治そのほかは部下に信頼して預けて、責任はしっかり取るという姿勢の人を司馬は評価したのではないかと思う。
私のような不良読者の見解はそうである。どうだろうか。