文体をめぐる冒険
僕は自分の書く力に限界を感じていた。良い意味でもあるし、悪い意味でもある。諦めるほどのこだわりもないが、期待するほどの熱もない。ある日の会社帰り、ふと小さな本屋に足を踏み入れた。久しく本を眺めていなかったなと気づいた。
というのも、大きな書店に並ぶ本はみんなカラフルでカフェが併設されていることも多く、僕のような地味な人間にはいささか疲れるのだ。いつからか僕は本屋から足が遠のいていた。
小さな本屋だけあって、入り口の半分は新しい本、奥半分は昔懐かしいタイトルが並んでいる。もちろん、僕の目当ては奥の空間だ。スペースを分けている通路を超えたとき、「おかえり」「ひさしぶり」という声を聞いた気がした。ああ、そうだ。僕はこういう本屋が好きだったのだよ。湿っぽくて、ざらついていて、本を開けば親にも友達にも言えない、僕と作者だけの秘密の会話がある。
僕の胸は高鳴った。高鳴りは、幼い頃に感じたものと何も変わらなかった。そして、ふと目についた本を手にとった。村上春樹『職業としての小説家』。さっと目を通して、面白そうだった。日頃、倹約している僕には珍しく即決してレジに向かう。これが、僕と村上春樹のシンクロの始まりだった――。