追憶の梅雨の中
https://kakuyomu.jp/works/16818093079895383387 今回は、リハビリを兼ねた実験小説として作りました。
五月からずっと、お話が書きたい気持ちはあっても、体調がすぐれずヘロヘロな状態でした。六月になっても覇気はなく、四割ほどしか元気がでませんでした。子供と違って大人は、百パーセント元気になることはありません。とにかく芳しくなかったです。
書くのも読むのもやめ、お話づくりに役立ちそうなことをあれやこれやと学んでは書きまとめ、ミステリー小説を五冊ほど読んだ後、児童書を四十冊以上読み、漫画をあさったり、アニメを見たり。少しずつ興味のあることを調べたり勉強したり。それでも、気持ちが動きませんでした。
みなさんはどうか知りませんが、心が震えたとき、わたしは書きたくなるのです。
本屋に足を運ぶも、ショッピングモール内の本屋は探しにくく、買いづらさに逡巡。図書館のはしごをしました。欲しい本は、目にしたときに手にしなければ出会えない時代になったのかもしれません。
そもそも、書店にないことが多く、図書館にすら見当たらない。ネットで調べると、在庫なしと表示されているのをみては、寂しさをおぼえることしばしば。途中、落書きしながらお話の種を作るも、メモ書きのまま机の上にほったらかし。
ぼんやりテレビを見ていたとき、わずかに心が震えました。
書けるかもしれない、そう実感しました。
なぜ、実験小説なのか。
今回はプロットなし、キャラ作り後回し、主人公の葛藤曲線の中心軌道を考えず、起承転結や序破急も意識せず、今までの作り方を一切やめて取り掛かったからです。
最初できあがったのは、およそ八百字。
さすがに短すぎ。
しかも、抽象的な出来でした。
あれこれ肉付けし、冒頭二行の内容を膨らませ、千五百字まで増やしました。
それでも、まだ足らない。
悩んだとき、脳裏に浮かんだのは「書き過ぎないこと」でした。
書けないときは、あれこれ書いてしまうことがあります。書いたら後で削ればいいだけですが、そうではなく、なにを書きたいのか要点を絞ることが大事なのです。
次に、「結・起・承で書く」ことを心がけました。
起承転結でも、起承転転転結でも、いい。
短編は、文字どおり短いです。
読む側も、なにが書いてあるのか、早く知りたいと思うもの。
予告的な結末を冒頭の序章に書き、本文、結末の流れに組み立てればいいのでは。最終的には描きたい話の根っこの部分を突き詰めたような結論を書いて、冒頭に付け加えました。
だから、最初に書いたものが最後に来ています。
はじめは、幼馴染の話と隣家の話が繋がりませんでした。
冒頭に書き込んだのには意味があるはずと考え、ペットから、かつて飼っていた犬を思い出す流れをスムーズにするために順番を入れ替え、対比として使えばまとまるのではと直感しました。
自分で読みながら、こういう話を書きたかったのかと驚きました。とはいえ、まだ具体的な部分が足らなかったです。
書き上がったときは、二千七百字くらい。
字数が足りませんでした。
なにか書き加えなければと読み直し、「主人公の気付きが足らないんだ」と気付いた次第です。ラストの気づきの場面は、当初はありませんでした。書き加えたことで、冒頭に幼馴染の話が出てくる意味が生きてきました。
こうして、三千字を余裕で超えることができました。
意図したわけではなく、結果としてそうなっただけです。
いつものように読み直して推敲していると、「ここ足らない」とか「ここはもっと書いてね」とか、文章が教えてくれました。
キャラクターが話しかけてくるのは聞きますが、文章が話しかけてくるとは驚きした。
いつもは、もっと書き込まなくては、と意識が強く働くのですけれども、リハビリだから肩の力を抜いて取り組んでいたせいかもしれません。
後ろから書いていくやり方は、面白かったです。
反省点は、もう少し五感を意識した書き方をしたかったです。
聴覚や嗅覚、味覚、触感を、もっと入れるべきだとわかっていたし、推敲しているときも考えたのですけれども、思い出の中ばかりで話が進む展開だったため、盛り込むのが難しかったです。工夫が足りませんでしたね。
さらに欲をいえば、雨に明るさを感じさせたかったです。人によりますが、雨からはネガティブな感情を抱きやすいため、読後感はもっとポジティブさがほしいと思っていました。
ただ、それをすると、作品全体が壊れそうな気がして、今回の話はこのくらいの描写でいい気がしました。