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『アバン・リー』で思い出すその他

マレーシアへ出稼ぎに来る外国人は多く、タイ南部から来た食堂のお兄ちゃんらも「貧しさゆえに出てきた」のがありありと感じられた。
それでも、友達になったタイ人集団を「自分と同じ若者」程度にしか捉えていなかった。
ナラティワートについていった時、国境で一瞬姿が見えなくなった数人のアバンたちはパスポートやビザが怪しかったと思う。
彼らの実家に行けば見たことがない程のあばら家に幼子が何人も居たし、まだ50代にもならないはずの母親は老婆のようだった。
私のルームメートの中華系マレーシア人女子は「食堂のアバンたちには気を付けないと」と心配していた。警戒心も格差の感覚もなかった私は、やはりアホ丸出しの無垢な顔で「いい人たちだよ」とでも応えていたはずだ。

私とKが仲良くしていた彼らは、全員20代だった。
格差だなんだ言っても、色恋のひとつやふたつあってもおかしくない。
実際のところ、誰が誰を気に入っている位には「ほのかに」あったけれど、デートのデの字もなかったのは幸いだった。こじれることなく仲良くなれたから、今でも苦み抜きの思い出だ。
 
いつか、当時のことを小説にできないかなと考える。
未熟だからこその残酷さもあっただろう。物語にするとなれば、それらを思い出して美化せず向き合わなくてはと思う。そもそも最近、忘れっぽいから心配である。

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