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とろこ問題(編集中

考えるほどなんか根本から違う気ガス。

〜〜〜

何の知識も教養もない素人がおもむろにトロッコ問題に関して考える
よ。

まずは問題の確認から。今回はwikiを参照。


”まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。

(a)
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。


そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。

(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。

つまり単純に「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題である。功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきである。しかし義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない。”

wikipedia「トロッコ問題」概要の項より


で、

度々前提を忘れてアイディア合戦になってしまうことがあるから脱線しないように先に確認。問題という表現はされているがwikiにも結論があるとおり、そもそも正解を出すことや他の「突飛な」選択肢を探ることが少なくとも今回の目的ではないことを念頭に置いて考える。
じゃ何が目的なんですか。別に目的とか意味はない。遊ぶだけ。

それぞれの選択から想像できる理由とかその意味だとか?道徳や倫理という言葉を使うと途端に大層な議論めかしくなってくるけど、自分自身もしくは社会的に「許せる」か「否」かを中心にぐるぐるしていれば論点はずれにくい……はず。
何にしろ今回は色々考えて楽しむこと自体が目的なので、設定や条件をガードレールにして似たような道を行ったり来たり脳みそぐるぐる屁理屈をこねるの楽しいからそれをやるよって話。

この問題で言えば、

・助けるか助けないか(5人と1人どちらを選ぶか)
・そこに至るA氏の判断基準
・分岐器を操作する意味
・放置ならその理由(論理的でなくていい)と責任の程度
・殺人の免罪符と 罰という概念の効力
・そしてそれらの罪と正当性

いろんなポイントでそれぞれに道筋があり、想像をふくらませることができる。命の平等性の是非、が面白い。ていうか今回は特にその話なのでは?
自分の脳みその癖でよく話が枝分かれしたりして筋道を外れちゃうこともあるけど、この話を書いてるのがどうしたって自分だからそこはもうしょうがない。自分の思考をうまい人にまとめてもらえたら素晴らしいんだけど。ほらこういうとこ。

ということで、いろいろいっぺんに考えるのは到底無理だけどゆったり少しずつ味わっていこうって。


①分岐器(レバー)を操作して5人を助ける場合

A氏は自らの意思でレバーを引き、トロッコの進路を変え、結果として起こるのは5人の生存。と同時に、B氏1人の死だ。A氏の視点から、自らの操作によって5人を救ったという事実(①-a)、そして1人を殺したという事実(①-b)。もちろん、実際はそれら両方が同時に起きてるんだけど、急に一緒くたに考えるとあたまがこんがらがってしまうのでこれを分けて考えてみたい。

①-a 犠牲はあったが5人の命を救ったという見方。
彼の功績を考えてみる。

A氏は死ぬ運命にあった5人を救った。まるで英雄だ。
この場合のA氏の思考はどんなだろうか。1人より5人を優先すべきと判断するために比較できるものが偶然人の命の数であったと。単純に数字を見て判断し少数を”犠牲に”多数を救う。残された命が多い方が良い結果になる、と。wikiの言うところの功利主義に通じる思考だろうか。その現場にいた7人の素性が白日のもとにさらされぬ限り、A氏を讃える人々は決して少なくはないだろう。

ここから考えられること。線路にいる彼ら6人の命がA氏にとって全くもって「平等」であるとA氏は結論付けた。平等だと判断する根拠とは何か。彼はそれぞれの命に「同等な値段」をつけた、という風に言い換えられる。A氏は命を数字で考えて操作した。

それゆえ、6-5=1という損失と6-1=5という損失を天秤にかけ、5を残す判断ができた。そしてそれがたまたま命の数だったってだけ。5倍の命を救えるなら安いもんだよね。数を見れば明確じゃないかジャマイカ。この理屈で言えば、さらに比較対称のB氏1人だったところをB氏、C氏、D氏、E氏の4人まで増やしたとしても、このA氏は5人の方を助けるということだ。
……本当にそうか?

仮に一方が100人、もう一方が99人だった場合同じ判断ができるだろうか?もっと数が多ければどうだろう。たった1人分の命の差を根拠に、99人……それ以上の何人であっても殺せるだろうか?如何なるときも本当に命が平等であるなら何もためらうことはないはずだけど……。
ここが人間とAIの違いなんだろう。もちろん、何人でも同じだと言う人も多いだろうけど、少なくとも私なら全く同じテンションで99人は殺せないなあって。結果として最終的には同じ選択をするかもしれないけど、6-1=5と199ー99=100、それぞれで築かれる思考は同質とは言えないのではないか。命の操作において、平等性以外にも基準があるはずではないか?

ちょっとまって。その前に、
A氏はそれぞれの命に(同じ)値段を付けて判断した。
しかし、

命を値段で考えていいのか?
そもそもだ。「命はみな平等」という表現。あれは「命は絶対的なものであり、価値は付けられない」という意味じゃないのか?
そうなると「平等な命」という考え方には全く相反する意味があるということになってくる。
価値は付けられないと言いながら「同等な価値」を付けている。
命の価値とは何だ?命に価値をつけると何が起こる?


ちょっとズレた。
ここからが上であげた①-bにもつながる。かの罪は許されるのかという話。


①-b A氏は5人の命を理由に1人を殺した、という見方。
彼の罪を考えてみる。

A氏はリターンのためなら犠牲を厭わぬ。まるで非情なAIだ。
その不運なB氏という、たった1人の命なぞ総勢5人の前には価値が低く、犠牲にされても仕方がなかったのである。しかし問題はその天秤に乗っているのが命だということ。さっきと似てるようで微妙に違う。

こっちは①-aと違ってもっと抽象的な話になる。

この問題のテーマである「多数の命のためなら少数の命を奪うことは許されるのか?」がややこしくなる理由がここ。
ここでまず問題なのが、見捨てられて死に至ったのではなく、「A氏の手によって殺された」ということ。A氏は救命を名目に殺人を犯したのである。なんてひどい人だ。しかしwikiにもあるが、もちろんここで言っている罪というのは法的意味での犯罪ではなく許されぬ行為だという認識そのものだ。

つまりこのA氏には、罪はあるかもしれないが少なくとも罰はないということ。

罰がないなら罪ではないのでは?
でも悪いことをしているのは違わないじゃん?

どうなんだろう?
A氏は無罪なのか、それとも有罪の懲役0年なのかと。


この先は人としての心の問題になってしまう。罪の話だから。

A氏は人を殺した。
紛れもない事実だ。「殺人は許されない」が前提である以上、A氏は「許されない」から逃げることはできない。どれだけの人を救おうが、どれだけの善行を積もうが、1人の人間を殺したことには変わりない。自分の判断で。自分の手で。

殺人の免罪符というものは在り得るのか?

殺した人は二度と戻ってはこない。どんな補償をしても、自らの命を以て償おうとしても、殺した命は戻ってこない。その事実、罪は消えない。

100人を救ったと言いながら他の99人を殺しても、彼には「許される」という希望があるだろうか?99人を殺した彼に無罪放免を言い渡される様を見て、人々はうなずけるだろうか?
99人を殺しておいて称えられるなんてのは、あまりにも想像が難しい。
その99人が敵国の兵なら分かるけど今はそんな話じゃない。何の情報もないただの99人の、自分と同じ人間だ。


(そもそも罪とは何か?)





今回のような無法世界において、例えば自然の動物たちの世界で、罪な個体というのはなかなか想像しづらいだろうと思う。出来なくはないが。










〜〜〜
6-1=5 と199−99=100、この定式の判断基準が同じ命の平等性だった場合、救う命が多いほど罪が重くなる。平等性の正当性を貫くほど罪が重くなる。
これをトラブル(a)に立ち返って当てはめてみる。
1人を殺すことは、平等性を考えれば正しい、ということになる。しかし罪であることは変わらない。言いかえれば、正しいことをしても罪になるわけである。なぜなら

違くない?これは違う気がする。
でも「正当性を貫くほど罪が重くなる」は正しいと思う。

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メモ:図解

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