寅衛門「無駄に情報量が多い墨堤の取材ノート、まずはこちらの東都名所図会をごらんください」
寅吉「東都、とは江戸の別名の一つですね。おお、これは作中では掠りもしなかった桜の季節の墨堤」
寅衛門「墨田川に築かれた堤を墨堤と云うのだが、四代将軍家綱公の時代に始まった墨堤の工事、八代将軍吉宗公がさらに堤防の規模を拡張させた。ただそれだけ長い堤防の土を固めるのは至難の技、そこで吉宗公は堤に桜を植えて花の名所にし、観光客の足によって堤に積んだ土を踏み固めさせたという」
寅吉「美しい女性にならワシも踏まれたい」
寅衛門「・・・・・・では絵を詳細に見ていこう。今回、情報量が半端ないぞ」
寅吉「下に示した全体図の番号に沿って見ていけばいいんですね」
寅衛門「まずは1.画面右端だな。これがいわゆる水茶屋で、煮出した茶をこのような簡素な小屋立てで客に振る舞っていた」
寅吉「煮出すんですか。煎茶ではないんですね」
寅衛門「製法は焙じ茶だな。ただ地域によって茶葉は様々な加工をされていた」
寅吉「茶屋のウェイターが見ているのは・・・・・・、あれ、これ確か前にも紹介したような」
寅衛門「そう、盲目の女性が三味線を弾き語る、瞽女(ごぜ)という職名の芸人だ」
寅吉「別嬪さんなんですかね、ウェイターは見惚れていますな」
寅衛門「その茶屋の手前に坊主頭が見えるが、この近くの寺の坊さんだろう、顔なじみの芸者に挨拶して貰ってデレデレしておる」
寅吉「その芸者衆を引き連れているのが、ちょっと遊びに馴れた感じの色男ですなあ」
寅衛門「頭に乗せているのは手拭だ。ぱりっと折って頭の上に置く。今でいうハンチングのようなものだな」
寅吉「腰にぶら下げている四角いのは何ですか?」
寅衛門「これは煙管入れだ。タバコと煙管、鼻紙なんかもちょいと入れる持ち物で、これもデザインや素材に江戸の粋が凝らされている」
寅吉「あ、ほんとだ、この色男は煙管を吸ってますね」
寅衛門「江戸の人達は老若男女、煙草を好んでいた。浮世絵にもよく描かれている」
寅吉「・・・・・・ゲフンゲフン。ワシはタバコ苦手ですから、ちょっと副流煙も遠慮したいところですなあ」
寅衛門「時代の文化だな」
寅吉「歩き煙草が憎い」
寅衛門「色男と芸者衆の一行の後ろ側、3に品の良さげな武士が見える」
寅吉「笠を被っているのが上役っぽいですね」
寅衛門「参勤で江戸に来た国許の家臣を、丁髷をきっちり仕上げた江戸勤番の者が案内している感じだな」
寅吉「黒っぽい着物を着ているのは」
寅衛門「江戸屋敷の中間かな。良く見てみろ、袴をはいていない」
寅吉「ああ、袴を着けているかどうかが身分の一つの目安なんでしたっけ。……なんで険しい顔をしているんですかね?」
寅衛門「その険しい顔が向いている先が4の絵だ。」
寅吉「何か吹いてる……?」
寅衛門「シャボン玉売りだ」
寅吉「へえ!なんだかハイカラな物を売ってますなあ!」
寅衛門「シャボン水と、右手に持っている葦のストローをセットで売る」
寅吉「さ、さ、さすてなぶる?な素材ですね」
寅衛門「子どもがシャボン玉を悦ぶのは古今を問わない。身なりからして近くの農民の子が喜んでいる様子が描かれている」
寅吉「木の影にちょっと生活に疲れた感じの主婦がおりますな。あれ、良く見ると菜を売ってますね。背中に背負った赤子も身を乗り出してシャボン玉を見ていて、これは和む光景ですなあ」
寅衛門「その農家の女性とは対照的なのが5の女性たちだ。帯の結び方や、付き添いの男衆が着流しであることから、おそらく大店のお嬢様だな」
寅吉「こちらの一行は、お子様もいい身なりをしていますなあ」
寅衛門「その幼女の目線の先にいるのが6の大男だ」
寅吉「黒い着流し姿の男性が大男の連れですかね。背中に何か背負っていますか?」
寅衛門「大男が背負っているのは三味線の太棹だ。大男はおそらく津軽ボサマと呼ばれる芸人で、彼等は迫力のある演奏を売りにしていた。今の津軽三味線に繋がる系統の音曲だ」
寅吉「ああ、この大男は目が見えないんですね」
寅衛門「当時は流行り病で失明する者が多かった。特に麻疹がもっとも大きな原因だった」
寅吉「今は予防注射がありますからなあ。予防接種は必ず受けましょう!」
寅衛門「大男のボサマの連れである黒い着流し男が見ているのが7の占い師だ」
寅吉「・・・・・・もうなんでもありなんですね」
寅衛門「占い師の筮竹を一本、左にいる男が握っている」
寅吉「・・・・・・なんか今の占いと違くないですか?」
寅衛門「そもそもこの占い師が"本物"かどうかもあやしい」
寅吉「所詮、大道芸人……」
寅衛門「占い師の後ろには、舞い散る桜の花弁を扇子に受けている男と連れの女性の姿が描かれている」
寅吉「・・・・・・折詰弁当食べてませんか?」
寅衛門「料亭からテイクアウトしてきたのかもな」
寅吉「今も昔もそう変わりませんね」
寅衛門「そして7の部分だが、この陽気な酔っ払い二人連れ、この絵の中で最も身分が高い旗本・御家人であると推測される」
寅吉「え、確かに一人はちゃんと袴に紋付羽織ですが、もう一人はだいぶ乱れた服装ですよ?」
寅衛門「でも刀が二本差しだろう。小太刀、長刀を二本持てるのは武士のみだ。そして袴は股立ちを取って巻き上げている」
寅吉「頭の上の手拭も、江戸の流行を知り尽くしている体ですよね……。遊びすぎて勘当されるタイプの旗本かぁ……」
寅衛門「8の右下には桜餅の幟が見える。そして屋台でも桜餅を売っていることから、一つの店が専売していたのではなく多くの店が出ていたと知ることができるのだ」
寅吉「ついでに補足するならば、1の茶屋の左側、妙な服装な二人連れは漫才コンビですよね。団子、食ってる」
寅衛門「人が集まるところに芸人が集まる。そうして江戸の雑然とした賑やかな風俗が形作られたのだろう」
寅吉「しかし、一枚の絵にこれだけ情報が詰め込まれているのもすごいですね!」
寅衛門「・・・・・・まだある」
寅吉「え」
寅衛門「今回、言及し切れなかった"い"と"ろ"。付近の神社仏閣についてはあらためてご紹介します」
寅吉「ひゃあ~……」
*江戸歳事記 4巻 付録1巻. [1]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369317?tocOpened=1