たくさん楽しい映画を見ました。
長期シリーズの完結編が長い時間を置いて上映されることを『同窓会』と言ったりするようですが、私はどちらかというと『葬式』だと思っています。いい意味で。
作品というものはどこかで決定的に終わらせるべきだというのが私の意見です。
『エヴァの呪い』という言葉があるように、完結せず可能性だけ置いて切られた作品は受け手の中に残り続けてしまいます。これを逆手にとって集客に使っているのがホラー作品の『まだ悪夢は終わっていない』みたいな終わり方です。これは無限に続編を作れるので便利です。
最近は「あれってその後どうなったのかなあ」という作品を一つひとつ丁寧に終わらせていくのが多い気がしています。
なんとなく「いつか終わらせなきゃいけない」と作り手も受け手も感じ始めたんじゃないかなと思います。
その作品の思い出を振り返りつつ、受け手が納得しやすい形で『終わり』を提供するのは、お葬式みたいだなと思います。
悲しい儀式ではなく、区切りをつけるイベントだという意味で。
形はどうあれ、シン・エヴァの後でエヴァの話をする人は減ったような気がします。それはやはり『終わった』という実感が大なり小なり我々に届いたからなんじゃないかなと。
昔、私の知人に「作品としての質なんかどうでもいい。考察してオモチャにできれば俺にとっては十分だ」という人がいました。彼は私とは真っ向から考え方の違う男でしたが、彼の意見は常に大衆側であり、私を排除する側の意見でしたので、当時は「めっちゃ参考になるなァ」と思って聞いていました。
そんなふうに作品と向き合うのはとても寂しいことだと私は思います。楽しさは分からなくもないですが。
そんなオモチャにされるくらいなら、作者自身の手でケリをつけて殺してやるのが作品にとってもファンにとってもよいことだと思います。
『SEED』は当時、たくさんの人に怒られていました。当時は作品を否定ばかりして冷笑する風潮も強く、クリエイターへの敬意もあまり見受けられませんでした。
当時の私にもそういう傾向はありました。
『提供されるものは高品質でなければならない、なぜならプロが作っているのだから』という考え方は私は否定します。プロだとかアマだとか、そんなものはいざもう死ぬ時にはどうでもいいことだからです。
確かに『SEED』は完璧ではありませんでした。私も死ぬほど好きかといえばそうではありません。
それでも今回の完結映画では『超怒られて、超イヤミ言われても、超がんばったらみんな喜んでくれた!』という一つの事実を私は学びました。少なくともリアルタイムでSEEDを見ていた私が『FREEDOM』で満足したからです。
人を馬鹿にしてコケにするのは簡単でした。否定して理屈をこねて相手を追い詰めるのは快感です。
しかし、そういった人たちがこの20年で何も作り出さず、生き残ったSEED制作陣が『FREEDOM』に辿り着いたことを考えると、冷笑主義にはなんの価値もありません。
何も生み出さないからです。かつての私の知人のように。
近況ノートを勢いに乗って書きまくりましたが、「書かないと死ぬ病」にかかったのでモヤモヤしていたものを吐き出しました。
猫がキーボードに乗ってくるので終わりにします。