この本、語り口はソフトで読みやすいし、取り上げる事例も面白いんだけど、著者のブルネ氏の日本の漫画やアニメについての主張というのは意外と分かりにくい。
例えば「ジャパンエキスポ」への違和感が語られる。
小洒落てるがニワカっぽい「ジャパンエキスポ」のノリが、旧世代オタクのブルネ氏には合わないとか、やっぱりそういう「世代間ギャップ」がフランスのオタクにもあるのかなと思ったけど、どうやらそれだけではなさそう。
ブルネ氏に言わせると、若い世代はコスプレでも何でも日本の流儀に安易に染まりすぎるのが良くない。なぜなら、フランス社会に居場所を見つけられない若者が「理想化した日本」をアニメの中に見て、そこに逃げ込んでいるからだと。そして、それに乗っかって「ジャパンエキスポ」で商売する日本側にも批判的だ。
「オタク文化が現実からの逃避先になっている」という批判は日本でも昔からあるし、その「逃避」が深刻なレベルまでいってしまったらまずいというのは、まあ分かる。フランスの一部の若者が過度に日本を理想化してしまうのと、日本側のこれまた安易な「日本すごい論」とが、漫画アニメ文化という場で結びついてしまうのを危惧するのもよく分かる。
それでも、作品が日本で作られたものだと強調するのはいけないというブルネ氏の主張は、やっぱり分からない。
ただ、この本の終わりの方まで読んでいって、ブルネ氏の危惧の理由が見えてくる。「シャルリー・エブド事件」の話が出てくるのだ。
ブルネ氏は移民には一貫して好意的で、移民が悪いとかイスラム教が悪いとは言わない。フランス社会にある矛盾への反発が犯人たちの動機であり、フランスを支配する価値観に対抗するため、イスラムという別の絶対的な価値観を求めたのだと言う。
ただ「イスラムが悪い」とは言えないので、「既存の絶対的な価値観を捨てたのに、また別の絶対的な価値観を求めてしまうこと」がいけないのだという主張になる。つまり、求めた先がイスラムだったことが悪いのではなく、それがどんな価値観であれ、絶対化したことがいけなかったと。
そうすると、フランス社会に馴染めず、漫画アニメを通して日本を理想化しているフランスの若者たちは「シャルリー・エブド事件」の犯人と重なり合い、同じく危うい存在とブルネ氏には感じられる。
ブルネ氏のアニメ原体験はフランス向けにローカライズされたもので、それに強い思い入れがある。日本でも、昔見た洋画や海外ドラマの吹き替え版に思い入れがあるってことはままあるので、これは分かる。
また、フランスにおける日本アニメ黎明期の面白さや、未知であるが故の「誤解」や「偶然」の重要さを語るのだけど、どんなジャンルでも創成期には特有の混沌と興奮があって、その面白さもよく分かる。
そういう体験を元に、フランスと日本の「間」の想像力とか、「落とし穴に落ちる過程」が大切とか言うのだけれど、フワッとしたたとえ話ばかりでどうもはっきりしない。もう一度、創成期の混沌と興奮を取り戻すことなんて今さらできないということはブルネ氏もわかっているようだが、じゃあどうするのかと言うとそこは歯切れが悪い。
結局は、個人的な原体験が根拠になる「世代間ギャップ」の話なのか、というところに戻ってきてしまう。
具体的な話としては、日本製という看板を大きく掲げて売り込むのは良くないという主張になるのだけど、それで本当に問題の解決につながるのか、そこの理路が見えない。じゃあ、イスラム圏由来の文化もそのルーツを伏せてフランス社会に紹介した方がいいのか? マルジャン・サトラピのBD『ペルセポリス』も国籍不明の寓話にでも改変した方が良かったのか?
その作品を日本製と知った上で、安易な理想化をしないような手立てを考えるのが本筋であろう。ブルネ氏は自分の過去の体験をそれこそ「絶対化」してしまっているのではないか。
といろいろ書いたけど、全体としてはいい本。ここで検討した「主張」もごく控えめに語られている。