『賢者はベンチで思索する』近藤史恵(文春文庫)
面白かったです。主人公家族のどこにでもありそうな家庭の不穏感だったり、主人公の目線や感じ方がものすごく読者に近い感じが良かった。
恋しちゃった相手がめっちゃイケメンで、自分身の程知らずとか思ってたのに、イケメンに見えてたのは自分だけだったーとかめちゃ可愛かったです。
そんな中でフツウじゃない存在感を醸し出す国枝老人。いったい何者なのか。
それにしても、こういう日常の謎ものって、ネタそのものはフツウでなければならないのですよね。「日常の」なのだから当然。真相は誰もが考え得ることでないとならないわけで、それをどう面白く描くかHOWが重要。なんてまた思ってしまったのでした。
『ファンタジーとジェンダー』高橋 準(青弓社)
ファンタジー作品のなかのジェンダーやセクシュアリティに触れる前に、まず「ファンタジーとはなにか」の問題があって、それは果てのない議論になるので今作では「ジャンルとしてのファンタジー」と定義しています。
ですけど、賢明な皆様お分かりのように「ジャンル」っていうのも悩ましいもので。更に「ジャンル」=「人々にそう受け取られるもの」ってなるわけですけど。このジャンル分けの感覚や意識に大きく影響を与える要因が、
①先行する作品群
②コアをなす作品
③ファンタジーの特徴として認められた道具立て
④流通
⑤社会的要因
項目をそれぞれ見ていくと②のコアをなす作品として最も中心にあるのは『指輪物語』、少しずれて「ゲド戦記」『不思議の国のアリス』など。
現代社会で特に重要になるのが④の要素で、「何がファンタジーとして売られているか」で、その作品がファンタジーとして認知される。
⑤は社会階層によって享受する文化が異なるということ。大衆的なアニメーションやコミックでファンタジーを受け取ってきた層と、幻想文学や児童文学を通じてファンタジーを受け取ってきた層ではジャンル分けの仕方も異なるのではないか、ということ。
そして多様な内容や表現をもつようになってきている現代のファンタジーをとらえるには、サブジャンルを考えることが必須であるとも。SFファンタジー、中華風ファンタジー、アダルトファンタジーなどなど。
なんて読んでいくと、どのみちジャンルとしての定義さえやっぱり難しいと感じてしまうのですが。
ファンタジーの区分としてはそれ以前にハイ/ローがあるわけで。
ハイ・ファンタジーを大きく分けると三種類。
1.最初から最後まで異世界で物語が進行するもの。(いうまでもなく『指輪物語』がこれ)
2.現実世界の住人が異世界に紛れ込む。(「ナルニア国」や「ハリーポッター」。ローに区分される場合ももちろんある)
3.歴史や神話の世界を舞台とするもの。史実や時代考証の改変もあり。(「勾玉三部作」『銀の海 金の大地』、また亜種として『風の谷のナウシカ』『BASARA』もこれにあたると)
日本ではファンタジーの伝統がまず児童文学にあるので、ファンタジーといえば児童文学という見方が未だに強い。
そんななか戦後日本でファンタジーの幅を広げたのが1970年代から数回にわたって起こるファンタジーブーム。
まとめるとこうです。
「第一の波」1970年代、特に後半。
英語圏のヒロイック・ファンタジーを主とする外国作品の紹介、早川書房の「ハヤカワ文庫FT」による流通、ジャンルの確立と拡大。
当初ヒロイック・ファンタジーはSFのサブジャンルだったが次第にファンタジーとして意識されていく。現代和製ファンタジーの出発点ともいえる「グイン・サーガ」も最初はSFファンに読まれていたのが、次第に独自の読者をかちとっていく。
「第二の波」1980年代後半から90年代初め。
現在の日本のファンタジーの基本構造をつくったともいえ、様々な展開が見られる。
和製ファンタジーが量産され、「エフェラ&ジリオラ」「破妖の剣」「スレイヤーズ」などがスタート、「ヤングアダルト向け」という新しい領域が開拓される。
『長安異神伝』「十二国記」『創竜伝』などの中国風ファンタジー、『帝都物語』「勾玉三部作」などの和風ファンタジーの興隆。
そして多メディア化。『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』などRPGの流通により日本のファンタジーの受け手は低年齢層に拡大。息長くファンタジー作品が受け入れられる基盤ができあがる。テーブルトークRPGのリプレイとして「ロードス島戦記」の登場も。
流通面でヤングアダルト向け文庫の創設も重要な出来事。
「第三の波」1990年代
いうまでもなく「ハリー・ポッター」シリーズとその映画化。CG技術の発展を背景に古典の『指輪物語』も映画化。
児童文学系ファンタジーが再び脚光を浴び、単行本のファンタジーも売れる。
いわば先祖返りの時期。
と「ファンタジーとはなにか」をこうまとめたうえで、ヤングアダルト向けとアダルト向けのハイ・ファンタジー小説を中心として、そこにジェンダーやセクシュアリティという視点をもちこむという試みの本書。
「ファンタジーに出てくる女性キャラってみんなステレオタイプ」という女子学生の感想から探求が始まったということなのですが、そもそもこのステレオタイプっていうのがファンタジーでは重要だそうで。
ステレオタイプだからこそファンタジーであり、オーソドックスな中でいかに魅力的なキャラクターを描き読ませるかが作者の力量だろうと。
いっときは男装して男性キャラと肩を並べて冒険をしても、恋愛を経て「待つ女」「癒す女」という母性の役割へと戻ってしまう。
ですが、ファンタジーを書く女性作家の増加によって、自身が主人公となって戦う女性たちが登場します。彼女たちはシスターフッド的な女性同士の絆を重要視し、性暴力による心の傷も自らの成長で克服していきます。
斎藤環が『戦闘美少女の精神分析』で考察した類型化によれば、フェミニズムの影響やポリティカル・コレクトネスへの志向がみられるアメリカ的な「戦う女性」に対して、日本的「戦闘美少女」は徹底的に虚構的でありおたくの所有の対象であるということ。ただし、この議論は男性中心的で男性の受け手しか想定できない。
では女性の視点でみると。アメリカ・ファンタジーの女性たちが「絆」「エンパワーメント」をキーワードに、厳しい現実社会との戦いに立ち向かう勇気と可能性を示してくれているの対して、日本のファンタジーはヤングアダルト向けであるため十代から二十代はじめの女性にとって同一化や共感、憧れの対象であるといえる。彼女たちは「ほとんど例外なく内面になんらかの葛藤や苦悩を抱えていて、それが物語構成やストーリー展開上の鍵になっていることも多い。」
ヒロインたちに共通してみられる問いが「わたしの居場所はどこにあるの?」
三十年以上にわたって日本の少女向けコミックの主題を分析している藤本由香里が「日本における少女マンガの永遠のテーマ」と指摘したのも「わたしの居場所はどこにあるの?」
自分に自信がない平凡な女の子たちが抱えている漠然とした不安感をヘテロセクシュアルな関係によって救ってもらう。橋本治いわく「自分がブスでドジでダメなのだと思いこんでいる女の子が、すてきなあこがれの男の子から『そんなキミが好き』と言われることで救われるオトメチックマンガの黄金パターン」です。
ヤングアダルト向け文庫が多い日本の女性向けファンタジーは少女マンガとモチーフは共通ってことです。
ですけど「戦う女性」ですから、異性からの癒しで救われるだけじゃありません。アメリカ・ファンタジーの戦う女性たちと同じように仲間たちとの絆や経験や自信、自分の居場所を戦うことによって勝ち取っていくのです。
良かった、ほっ。
で、そもそも本書はファンタジーの中のジェンダーを読み解くのですから「戦う女性たち」が存在・活躍することを可能にしている社会がどんなものかに注目する必要があります。「空想的なもの」と現実社会とはどんなかかわりがあるのか。意識することが読み手の実践というわけです。
ファンタジーの中の家族についても考察されます。ファンタジーに限らず、主人公の両親が不在のお話って多いですよね。しかし父親役、母親役的なキャラクターはいますよね。父親的な役割は複数の成人男性に振り分けられ、主人公の成長に際してのロール・モデルとなる。
実父は子どもに何を残すのか、社会的な特権と「名前」だっていうんですね。なんともシビア。対して母親が残すのは愛。
読み取れるのは現在における父親という存在の危機、変質との呼応。うむ、シビア。
また現実とは異なる社会構成だからこそ成り立つ家族のかたちも。「十二国記」の女性が妊娠出産しない世界などファンタジーだからこそですよね。
ファンタジー世界の家族と対峙する現実社会の家族のかたちは、近代になってからこうであれと私たちがそれが普通だと受けとめさせられている「近代家族」のかたちなのですよね。母親の自己犠牲や献身をあたりまえだとする価値観とか。社会に噴き出ている家族のゆらぎは「近代家族」の抑圧が原因だとも。
この「近代家族」とは異なる家族や夫婦の形態や意味づけをダイナミックにできるのもファンタジーだからこそ。
逆に、こういったファンタジーの中の家族のありかたを読み手がどう受け取るかによって受け手が生活している社会がどうなっているのかも見えてくる。読み手個人にどんな影響をもたらすかは読み手次第。それこそ、今現在、どんな家族形態に置かれているかは人それぞれでしょうから。
〈「すぐれたファンタジー」を作り出すのは、なにも書き手の側の努力だけではない。読み手の努力もまた、そこでは必要とされるのだ。〉
〈多くの人にとってファンタジーは楽しみのために読むものだ。しかしだからといって、うるさいことを言うな、という主張は間違っている。性差別や搾取や抑圧を肯定する、あるいは無関心からそれを支持してしまうような作品よりも、そうでない作品のほうが読んでいて「楽しい」。そのことをもっと読み手は自覚するべきだろうし、主張もしていくべきだろう。〉(あとがきより)
おもしろく楽しく、そして多面的に多様に深く読み解ける、そんなファンタジー作品が今後も新しく生まれ続けてくれるように願います。
ちなみに、巻末付録としてかなりのページ数を費やし、児童文学からヤングアダルト向け、少女マンガまで、注目点を押えながら数々のファンタジー作品を紹介してくれてます。
この本の発行は2004年。今現在の「ジェンダーのファンタジー」はどうなっているのだろう。はっきりと意識した作品がもっと増えていることでしょう。私は苦手なやつだけど『夜の写本師』なんて、ジェンダーの視点から解説してもらえないかしらって思います。