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自主企画終了御礼 & 読書メモ㉘

「自作小説の成分チャートを作成しあいませんか?(診断するだけの参加も大歓迎)Ⅲ」が昨日終了となりました。ご参加いただいたみなさま、積極的に診断に回ってくださった方、飛び入り参加してくださった方、お疲れさまでした。ありがとうございます。

https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054917185665

まだ数作品読みに行けてないので、もうしばらくお待ちいただければと存じます。

そして今回もいましたねー。チャート付けるだけ付けてもらって自分はノーリアクションでさーっと抜けてっちゃったヒト。感じ悪いわあ。みんな見てるんだから、そういうことやめた方がいいと思います。印象悪くなりますからねー。まあ、個人の自由ですけど。

なんか。他にも不愉快な動きをする人たちがまた目に付きだして、ヤになっちゃいます。定期的になるのですけどね、カクヨムがいやになっちゃう病。


さて、読書メモです。

『パノララ』柴崎友香(講談社)

すんません。カクカク放り出して二度読みしちゃうくらい面白かったです。

序盤から飛ばしてて驚きで「え?」ってなって初出を確認。「群像」で連載したやつなんですね、これ。「群像」って芥川賞作品を輩出する純文学系五大文芸誌のひとつですけど、私は厳密には中間小説の雑誌だと思ってます。
なんでこれも中間小説だなと。にしたって、キャッチーな設定といい登場人物のキャラ付けといい、えらくエンタメ寄りなんです。だから面白いのですけど。
だだって。なにが驚いたって、序盤に主人公の真紀子が男友だちのイチローの家に間借りすることになって部屋を見に行くんですよ。そんでいきなり全裸で洗車をしているイチロー父に遭遇するんです。
マッパのおっさん出て来たー!! からの

  「ただいま」
   イチローの声で、我に返り、イチローの顔を見た。
  「父です」
   ちち。

のくだりのゆるさがサイコーでした。芥川賞作家がこんな掴みを……タイヘンなんだなー(こら)

と、エンタメ寄りな設定とストーリーと登場人物なのですけど、柴崎友香の精緻な風景描写、精密な人物描写は存分に活かされてます。
精密なっていうのは、人物の性格や行動や心理に一貫性があるってことです。だから微細な変化をブレではなく意図的な違和や成長と捉えることができるんです。これって観察力があってこその描写力ですよね。人間を描こうと思ったら人間をよく見ないとダメなんです。
あたりまえなのですけど、いわゆるキャラクター小説の記号的な登場人物とは一線を画してます。あたりまえですけど。

そして特筆すべきは一人称の語りの上手さです。主人公(真紀子)の一人称で他者の物語を語るのが本当に上手い。
同作者の『わたしがいなかった街で』の復元話体(読書メモ⑳)ほどダイナミックではなく、佐藤正午(読書メモ㉖)の構成力ほどテクニカルでもなく、ごくごくスタンダードな一人称である真紀子の語りで下宿先の木村家の人たちの物語が語られるのです。
イチローの姉の文と真紀子が互いの生い立ちを語り合う場面なんて、唐突に始まって状況描写がほとんどないのですけど、そこに至った経緯とかその場面の映像が見えるみたいで、こういうふうに読者に描いていない部分を「読ませる」のが表現力なんだなあと感服。

一人称の難しさや限界がわかってきた方には、ものすごく勉強になると思います。一人称でここまで描けるんだって。

あとですね、ネタバレになってもあれなんで詳しくはいえないですけど、私が最近の文芸作品を読み漁りながら感じていた不満というか鬱憤というか、そうじゃないだろ!って思ってたことを綺麗に払しょくしてくれてもいます。
そうそう、こういうことなんだよー、と。こういう扱い方なら私は満足です。これぞ現代ドラマです。
なんのことかわからないですよね、ううう。話したいのですけど……

あと、○○って〇〇だよねーみたいな下世話な考察的なこともしたいんです。キャラ萌え語りもしたい。本当に面白かったから。でもネタバレになる……

読んだよー面白かったよーという方がいらしたらお声がけください。萌え萌え語り合いましょう。

そうそう、随所に見られる真紀子さんのゆるいツッコミ(ボケ?)が面白いのですが、妙に私のツボにはまったのが、「顔のいい男」という表現。
イケメンじゃないんだよ! 顔のいい男なんだよ! これからは私も「顔のいい男」って書くようにします(何の宣言)

27件のコメント

  • こんばんは。橘やよいです。
    自主企画楽しく参加させていただきました。
    主催ありがとうございます!

    読み手が抱いた印象はなかなか聞けないので興味深かったです。
    ほかの方の作品を読みにいく機会にもなり、充実した時間を過ごせました。
    素敵な企画をありがとうございました!
  • おはようございます。

    それは良かったです。
    チャート付って感想よりもハードルが低いですし、率直な結果が出るのではないかって感じがします。熱心な読者なら細々感想をくださいますが、そこまでに至らない多数の印象も大事ですからねー。

    もちろん人それぞれでしょうから、たくさんチャートが集まって比較できるともっといいのですど、みんながみんな協力的でもないので……。
    自分が付けたチャートと人とのを見比べて差異があるのも面白かったりするのですが。

    また気が向いたら開催しますね。

    わざわざコメントありがとうございましたー。
  • 『パノララ』読み始めました!
    しばしお待ちを、と言いたいところですけど、結構分厚い!
    でも楽しみ!
  • 文章もかなり平易に書いてるからスラスラ読めちゃえると思う。

    私今日も読んでました(カクカクしろよ)
    読む度に発見がある。久々にこういうのに出会えた。しあわせ。
  • 『パノララ』読み終わりました! これ、思ってた以上に、いい意味でずっしりきました。ちょっとまだ頭がしびれてる感じです。あと、例によって眠い……。なのでまた改めて来ます。でも、いろいろとありすぎてどこから話せばいいか困ってしまう……。やっぱり人称のところからかなー。
  • ね。軽い読み心地なのにずっしりだよね。すべての要素が深いというか。いくらでも掘り下げられちゃいそう。語りがいのある最上のテキストという感じ。

    うふふ。待ってます。
  • 『わたしがいなかった街で』もそうでしたけど、この人、すごく不思議な一人称を使いますよね。確かに、すごいなーと思いつつ、でもこれってかなり特殊っていうか、なんていえばいいんだろ、うん、不思議、がしっくりくる感じです。

    私も文さんの昔の話を聞くところ、びっくりしました。別のノートで関川さんが語り口について書いてましたけど、この語り口のうまさ。そして、「わたし」というのは主人公の真紀子さんの一人称のはずなのに、いつの間にか文さんの「わたし」が出て来ちゃう不思議な文体。ちょっと引用します。

     うちの母って、クラスの女子みたいな感触なの、と文さんはわたしに言った。
    (略)
     みすずさんがいなくなる前の日のことで、文さんに対するそのクラスの女子のような反応と高級プリンのほかに、特に覚えていることはない。わたしが勉強をはじめたからつまらなそうに三階に上がって、しばらくして保育園にイチローを迎えに行って、晩ごはんはたしかカレーを作ってくれたけど、それも得意料理や誰かの好物でもないしね。
    (『パノララ』柴崎友香 講談社文庫より)

    さいしょの「わたし」は主人公の真紀子。あとのほうの「わたし」は文さんなんですけど、同じ段落で「文さん」って書いてるのに、いつの間にかしれっと文さんの「わたし」の一人称になってる。

    これ、ちょっとびっくりします。内容と語り口で、あとのほうの「わたし」は文さんだってすぐわかるし、混乱はしませんけど、やっぱりこれは特殊です。これって今の柴崎友香だからできるのであって、新人作家がこんな文章を書いたらアホな編集者に直されるんじゃないか、という気さえします。

    このあとも、基本的には真紀子の語りなのですけど、ところどころで、突然文さんのモノローグのような文章が出現したりしますよね。でもやっぱり混乱はしない。

    ちょっと月並みな意見ですけど、真紀子と文さんの境界があいまいになっていくみたいな感じを受けました。同一化、みたいな。これ、どうやって書いてるんでしょう。なんか、むっちゃ感覚で書いている気もして、だとしたらすごい才能。

    あと、真紀子の、あの力の抜け具合っていうか、オフビートっていうか、絶妙ですよね、語りが。たぶんこれは、柴崎さんが関西人だからというのが大きいと思うんですけど。あと、相手にどういう言葉を返そうかと頭の中で考えて、でも結局言わない、とか、全然関係のないことを浮かべてるとか、こういうのすごくよくわかるし、うまいですよね。

    そして、さらにすごいのが、このよく言えば力の抜けきった(ように感じる)、悪く言えば消極的で主張しない真紀子の語り口には、たぶん彼女がこれまでに経験してきたことが大きく影響しているわけで、小説に書かれているすべてのことに意味がある(ように感じる、っていうかたぶんある)この人の小説は、やっぱりすごいや、って思うのです。と、まずはこのへんで。
  • 「」で括るべき相手の語りを地の文(一人称の語り)に交ぜてるのだよね。
    三人称の地の文に()で括るべき登場人物の心中語やセリフを交ぜるのと同じ感覚なのだろうけど、一人称の語りでこれをやるのは勇気がいるよね。
    感覚で書いてるでしょう、これ。同じ場面で文ちゃんのセリフがちゃんと「」に入ってるとこもあるでしょ。この違い、感覚でしかないと思う。これ頭を使っちゃったらできないと思う……のだけど、どうだろうねえ。

    >真紀子と文さんの境界があいまいになっていくみたいな感じ
    うん。この効果が大きいよね。前半の大事なシーンだと思うし。

    でも、この書き方、もっと前に登場してて。絵波が、イチローが将春さんに骨を折られた話をした場面で。赤いワンピース、好きだったやつ。とかって絵波のセリフが交じってて。

    わたし柴崎友香のすごいところは、『わたしがいなかった街で』でもそうだったように、こうやって読者を慣らしていくところだと思うの。ここは計算してるのかなって思うのだけど。うう、どうなんだろうねえ。

    そうなのそうなの。真紀子はとても良い受け手で、観察者で。で、良い悪いを断定しないのだよね。繭子さんなんかあやしさ全開の人なのだけど、真紀子が実はどう感じているかがあやふやなもので読者も彼女がただの善人なのか悪人なのか断定できない。いや、そもそも二元論で登場人物を分けようとするのもおかしいし、視点人物の印象だけで作中世界のことを断じてしまうのは短絡的ではないか、みたいなことまで考えさせられちゃって。
    このお話の中では何一つ断定されてないのだよね。だからこそ「書かれているすべてのことに意味がある」し、そのあやふやさがすごく良いって私は思うのだけど、面白くないって感想も多くて。冗長とかって。えええ、こんなに面白いのに。ひとそれぞれだから良いのだけど。
  • (ネタバレ注意)

    ほんとだ、イチローが将春さんに骨を折られた話の中で、絵波のセリフが出てきますね。ここは本来「」のセリフですね。でもここだけで、次の行からは普通に「」のセリフになってます。じゃあ、この違いはなんだろう? やっぱり感覚なのか?

    でも確かに、徐々に慣らしている感じもします。意図的に、自然に読んでもらえるようにしてますよね。それに関連するんですけど、私が引用した文章でもうひとつ気になることがあって。文さんの「わたし」が出てくるひとつ前の文。

    -----------------------------------------------
     みすずさんがいなくなる前の日のことで、文さんに対するそのクラスの女子のような反応と高級プリンのほかに、特に覚えていることはない。
    -----------------------------------------------

    この文章、主語が省略されてます。もちろん主体は文さんなんですけど、それを「文さんが」とするのか「わたしが」とするのか。主語を省略することであいまいな感じになってます。つまり、

    -----------------------------------------------
     みすずさんがいなくなる前の日のことで、文さんに対するそのクラスの女子のような反応と高級プリンのほかに、(文さんが)特に覚えていることはない。
    -----------------------------------------------

    とするのか、

    -----------------------------------------------
     みすずさんがいなくなる前の日のことで、文さんに対するそのクラスの女子のような反応と高級プリンのほかに、(わたしが)特に覚えていることはない。
    -----------------------------------------------

    とするのか。

    普通なら前者ですよね。でも、私はすでにこの文章からして、後者の感覚で読んでいたのです。つまり、完全に柴崎式一人称(面倒なので勝手に名付けました)へ移行する文章のひとつ前の文章の主語を省き、どっちつかずのあいまいな状態のものを置くことで、自然な感じで柴崎式一人称へ移行させてるんじゃないかと。

    もしこれを感覚だけでやっているとしたら、とんでもない天才だと思うし、計算でやっているとしたら、それはそれでむちゃくちゃ頭いいと思うし、どちらにしてもすごい人です。

    そうそう、繭子さん、むちゃくちゃあやしい。いやもう、完全にうさんくさいですよね。私、繭子さんが入れてくれるお茶にはぜったい怪しいクスリが仕込まれているって思っていました。あの映画制作の場所、すっごい気持ち悪かった。ううう、ああいうのいやだー。で、いつかぜったい大きな崩壊がやってくるんだろうと思って、いやーな予感なまま読み進んで、一応歪みがもたらすアクシデントは発生するんですけど、でも結局大きな崩壊は起きない。実は私、あの増改築を繰り返している家も、いつか崩落するんじゃないかって、思ってました。真紀子と両親との関係もそうです。いつか思いっきり極端な方へ振り切れちゃうんじゃないかって。そういう予感をずーっとはらんでる。そういうのが、舞台裏で全部つながってる。関連してる。全部意味がある。良い悪いの断定もそうなんですけど、でも、結局はどちらにも振れないんですよね。でもそれが良いです。それで良いっていうか。

    冗長……。いったい、どこが? ですよね。
  • 自分でもやるかもしれないって思う方法は、昔語りが始まる導入として「」なしのセリフ(語り)を地の文に交ぜて、その後本格的に「」のセリフを交えて場面を展開させるってやり方だけど、そういうわけじゃないし。うーん……。

    ほんとだ。この主語の省略のところも、誤読を恐れる凡庸な書き方だと「文さんが」って入れちゃうよね。でもそれだと柴崎式一人称(いいと思う!)に繋がらない。ここで少し読者を戸惑わせることで、この後の書き方をしっくり受け止められるのだよね。すごいよねえ。うん。どっちにしてもすごい。

    もう私なんかさ、ずーっと警戒しながら読んじゃってるから、この文さんとの昔語りの後の章で、「絵波は~」なんて絵波主体の文章が入っただけで復元話体か?とか思っちゃって、ちゃんと真紀子ちゃんも一緒に行動してるじゃん、みたいな。完全に翻弄されてる。主語の省略が多いのだよね。
    ていうか、イマドキのエンタメが主語をきっちり書き過ぎなのかも。(それに影響されて「青い導火線」とか「時の祭」とか昔の作品に主語を足しまくった自分がいます……)

    お茶にクスリ(笑) いや、でもないとは言い切れないよ!? 何に対してもそういう不安感がまとわりついてるのだよね、ずーっと。みすずさんはついに戻って来ないんじゃないか、とか。真紀子の父親にしても、荷物をまとめて愛人のところへでも行っちゃったのかと思ったらちゃんと帰って来たし。大きな展開を期待してる読者は肩透かしでつまんないってなるかもだけど、こういう、首の皮一枚でつながってる感がリアルだしむしろエンタメチックだと私は面白くて。ドキドキハラハラがずーっと続く、みたいな。そんな中でも真紀子ちゃんにしろ文さんにしろ一歩を踏み出せて良かったねってなる。

    で、繭子さん。怖いよね。断定的な確固たる意図はなくてもヤマモトは繭子さんに操作されて行動したんだと、やっぱり思っちゃう。繭子さんが、絵波が自分が尽くしてるダンナの隠し子かもしれない(これも断定はされてない)と知ってたとすると……めちゃコワイ。絵波みたいな子が繭子さんに懐いちゃうとこからしてコワイ。

    ところで私、文さんの登場シーンで、イチローは文さんが好きってビビビビッてきたのだけどなー(恋愛脳)
  • 主語の省略、多いですね。そういう語り口が真紀子の性質とまたぴったりと合っていて、だから自然に読めちゃうのですけど。

    >イマドキのエンタメが主語をきっちり書き過ぎ

    これ、私は意識したことがなかったんですけど、でも、そういえば、私も最近なるべくちゃんと主語を入れるようにしてるかもって。確かに、最近書いた雪熱も、ちょっと主語入れすぎかなーって思ったんですよね。一度入れ始めると、外すのが心配になってくるんです。加減がわからなくなってくるというか。

    繭子さん、怖いです。そうですね、ヤマモトは……って考えちゃいます。あと、絵波のこともぜったい分かってますよ。そういう女ですよ。こわーっ。

    あ、あと、思ったのが、前半でみすずさんが出ていた公演の打ち上げが居酒屋であって、そこに真紀子も行きますよね。当然ですけど、お酒飲みます。でも、吉永隼人の映画サークルのほうって、撮影終わっても飲みにいかないし、たぶん居酒屋で打ち上げなんかやらなさそう。で、つい思っちゃうわけです、シラフでぐだぐだ作品語ってんじゃねーよ、みたいなことを。居酒屋のシーンでも岡島マモモル(ネーミングセンス最高!)の悪口とかあるんですけど、酒の席でのことくらいな感じです。さらに包丁を持った女が乱入するというはちゃめちゃっぷり。一方はお酒に刃傷沙汰、もう一方はいかがわしい(?)健康茶にまじめなディスカッション。こういうのもうまいなーと。てなこと言っておきながら、私はほとんどお酒飲めないのですけど。

    >文さんの登場シーンで、イチローは文さんが好きってビビビビッてきた

    私もまったく同じです。っていうか、あ、この二人デキてる、って思っちゃいました。これ、なんでしょう。作者はまったく意図してないのでしょうか。それで、リビングでイチローの姿だけパノラマ写真から消えるじゃないですか。あの謎の理由って、もしかしたらこの二人の関係に原因があるんじゃないかって最初思ったんです。なんとなく。そしたらまあ、なんと、実際は想像のはるか上をいく、とんでもない理由だったわけで、そっからはもう、二人の関係はふっとんじゃったのですけど……。まさかこんなの放り込んでくるとは……。
  • 「私は」「私は」って主張のしなさもあるのだね。

    webだと距離が近いから読者に親切になりすぎちゃう。そこの指摘ばっかされるし。でも、もうちょっと読者を信じることも必要だと反省です。

    なんかさ。ダンナがみずから繭子さんにぺらぺら語ってそう、とか思っちゃう。コワイ。

    確かに対比になってるのね。かたやそれを生業としている本気な大人の社交場、かたや学生サークルに毛が生えた程度の真面目な学校ごっこ。後者は健康的なのに不健康に見えちゃう。なんだろうねーこれ。まずは否定から入るのがダメダメなのだもんね(みすずさん鋭すぎる)

    だよねー!! あれ、嫁かカノジョを紹介するみたいだったもん。ふたりでいちゃいちゃしてるし。どうなんだろ意図してないのかな。この人の書き方を考えると、そういう設定でもいいけどお好きに解釈してください的な? どうなんだろう~~。他の事柄と同じくどっちでもいいかってことではあるのだけど。そう思えてしまうのがこの作品のすごいところで。

    で、そうそう。私も驚いたSF(ファンタジー)設定。イチローの告白があったときには正直がっかりした。ブルータスお前もかって。でも最近の現代ドラマで出てくるみたいな便利な装置としての扱いではなく、こういうことは誰にでもあるかもしれない、だからって誰かを劇的に救えることなんかないし、むしろ苦しいだけだし、地道に変わっていかなきゃならないのは不思議体験があるなしとは関係ないし、でもちょっとは作用しているのかもしれない、くらいな扱いなのがよくて。パノラマ写真や木村家の家屋に象徴される歪みの表現なのだろうしね、これ。別に成長を助けるとかではなく。
  • 主語の指摘ばっかされるんですか? へんなの。なんにせよ、Webは良し悪しですよね。私最近、応援コメントの設定切っちゃおうかと思ってるんですけど、あれ、作品ごとに設定できないんですよね。筆致企画もあるからさすがにそれはちょっとなー、とか思案してます。それはさておき。

    しかし、話せば話すほど繭子さんがどんどん恐ろしくなっていくという……。変なことは一切してないんですけどね。子供も普通だし。不思議。

    みすずさん、鋭いです。こういうとアレですけど、その道でメシ食ってる人の言葉ってやっぱり違う。そういう人のセリフを書けるっていうのがすごいのですけど。話は逸れますけど、柴崎さんの(確か)デビュー作『今日のできごと』っていきなり映画化されたんですよね。例によって映画だけ見て本は読んでません。映画はむちゃくちゃ面白かったです。

    イチローと文さん、どーなんだろー。かーなり微妙です。お好きに解釈してください、にしてはあまりにも薄いような。いや、でも。どーなんだろー。

    あの設定、たしかにびっくりしましたけど、SFっていうほどのものではないですよね。あえていうならSF(少し不思議)? あの……「現代ドラマで出てくるみたいな」って、小説によく出てくるんですか? ノートのところに書いてある「最近の文芸作品を読み漁りながら感じていた不満というか鬱憤」ってこれのことですよね。最近、こういうループものとか、時間跳躍ものがよく出てくるのでしょうか。確かに、時をかけちゃうと手っ取り早く切なさ倍増ですからね。でも、そんな安易なお話は心の奥深くに残らないですよ。だいたい、時間SFはぜったいに素人が手を出しちゃいけない領域ですよ。一番痛い目を見るパターンです。ってすみません、私思いっきり書いちゃってますね、うそつき先輩で。

    ええと。ちゃんとした(?)文芸作品、純文学よりの作品でも、スーパーナチュラルな現象って出てきたりしますよね。村上春樹なんてしょっちゅうです。でもあれはもう、マジックリアリズムの領域なのかな。ただ、リアリズム小説のなかに出てきても、それは取り上げ方次第で違和感のない処理ができますよね。このイチローの能力(?)も、SF的な設定というよりは、持病っていうか、やっかいな症状? みたいな感覚で、私は捉えました。なので特にがっかりとかはしなかったのですけど。

    ただこれは、すごく個人的なことなのですけど。私、子供のころ、強烈なデジャヴに襲われることがよくあって。そのときに、すごく怖かったんですね。そのときはまだ小っちゃかったから、なんで怖いのかもよくわからなかったんですけど、今考えてみたら、自分では気が付いてないだけで実は同じところ(時間)をぐるぐると回っているだけなんじゃないか、そういう怖さを感じていたんじゃないか、と。だから、私は未だに、偶然って怖いんです。例えば、偶然昨日と同じちょっとした出来事が起こったりしたら、やばいです。そういう感覚をもとに書いたのが『エンケラドゥス』なんですけど、たぶん共感はされなかっただろうなーと。

    なので、イチローの告白のところで、私はぱたんと本を閉じました。あ、これやばい、と。で、しばらく気持ちを落ち着かせてから、また読み始めました。イチローの現象の何が恐ろしいかって、二回目はただなすすべもなく眺めることしかできないというところですよね。これ、かなりキツイと思います。しかも、真紀子のは二回ではすみませんでしたからね。あの少しずつずれていくっていうのも、あれはあれでむちゃくちゃ怖い。だって、次どういうふうに変わっているかわからないわけですから。というわけで、私にとってこの小説の後半は、むちゃくちゃビビりながら読んでいたのでした。怖かったー。
  • Webは良し悪しだよね。
    ああ、そっか。作品ごとにコメント拒否の設定選べないんだね。なろうとかエブリスタはできるのにね。

    表面的に見ればいいひとなんだろうけど、繭子さん。ああやって若者の面倒見てあげることも悪いことではないのだけど、価値観の偏りと押しつけはよくないって見本のような。(ジャンクフードだって美味しいし!) こうやって自分の言うことを聞く子は可愛くてそうじゃない子は敵、みたいなのって誰でも陥りやすいところだから寒さを感じるのかな、とも。深いね。

    へええ。文学作品てさ、けっこう映画化してるんだよねー。もっと話題になってほしいなあ。

    私の中ではイチローは文さんが好き!(笑) 有休取って金沢まで送るっていうんだよ! でもイチローだからそもそもがとっても薄い感情なんだよ。文さんのほうはどうかなーとは思う。いいじゃないか、片思い(恋愛脳)

    そうそう、少し不思議設定が溢れかえっててさ、死にネタもそうなのだけど「手っ取り早く切なさ倍増」装置に便利に使われてるのが気にいらない。あやかしとか神さまの力を借りてお悩み解決も気にいらない。自力でどうにかできないのか。
    >そんな安易なお話は心の奥深くに残らないですよ
    その通りなのだけど人気作扱いなのが気にいらない。だからそんなのばっかり量産されちゃうのだよねー。うう、こういう不満ってエンドレスしちゃう。修行が足りない。

    ループもの難しいよね。(うそつき先輩はすごく良かったよー)
    『時間ループ物語論』ていう研究本があって二度挑戦してるのだけど、まだ読み切れてない。その冒頭だと、恒川光太郎の『秋の牢獄』を紹介してループっていうのは「閉ざされた世界」のお話だって。「閉ざされた世界」で好きに動けるならまだしも、自分の意志で身動きができないイチローや真紀子の体験はほんと「牢獄」だよね。恐怖しかない。

    そうだね、マジックリアリズムまではいかない、新感覚派かなって思う。現実の再現だけのリアリズムではなく感覚的描写・表現形式を重視するっていう。現代小説はほとんどこれだよね。
    イチローや真紀子のループも個人の体感的なことかなと思えなくもなかったんだよね。夢と言われればそうじゃないかくらいの。
    で、デジャヴ(既視感)ね。怖いよね。
    >同じところ(時間)をぐるぐると回っているだけなんじゃないか
    って、こういう日々の感覚が自身の人生に対する不安と結びつくと人って死にたくなっちゃうのかな、とも私は思える。
    それはともかく。鎌倉で真紀子が、このマンション見覚えがあるって言ったときにイチローが気のせいって思わせぶりにばっさり切るでしょ。あれは何だったんだろうって思って。真紀子のマンションに見覚えがあるっていうのはデジャヴでイチローのは違うって強調なのかな?
    イチローのループ体験も、文さんのワープも、ほんとなの?って、で、真紀子が文さんのワープを目撃したことでほんとなのかってなって、じゃあイチローのワープもじゃあほんとなのかってなるのだけど、実際のところはわからなくて、最終的には現象の有無が問題ではなく「体験」が大事だったのだろうなっていう。ここでも断定ができない。それでぜんぜん良いのだけど。
  • 価値観の偏りと押し付け。繭子さんの場合は一見まともなことを言ってるので(ほんとはむっちゃうさんくさいけど)影響されやすい人は影響されちゃうんでしょうね。価値観の偏りと押し付けって、真紀子の母親ってまさにそれですよね、最悪の形ですけど。

    文学作品、映画化されてますよ、意外と。『今日のできごと』が公開された年って、確か『ジョゼと虎と魚たち』(なぜか今年新作劇場アニメに)も公開されて、どちらも妻夫木聡と池脇千鶴が出ていて、二人とも上手いなーと思ったのでなおさら印象に残ってます。また話逸れますけど、池脇千鶴は三井のリハウスのCMのときからこの子天才か! って思ってたんですけど、妻夫木くんってフツーの子の役がむちゃくちゃ上手いなと、この頃から意識し始めました。

    イチローって表面上はひょうひょうとしていて淡泊ですけど、いつ二回目が起こっても後悔しないようにしているわけですよね。居酒屋で包丁女に最初に飛びついたのもイチローだし。なので、普段は二回目にしんどくならないようにおとなしくしてるけど、いざ何か起こったら後悔しない行動をとろうとしてるのだろうな、と。でも、うん、明らかに文さんのこと、好きだよね。真紀子がイチローに彼女いる? ってきいたときに、イチロー、「いるような、いないような」って答えてるんですよね。このとき、私ぜったい文さんのことだと思ったんです。でも、結局これもスルー(ですよね? イチローの彼女問題、出てきてませんよね?)。

    >人気作扱いなのが気にいらない

    ああ、それは、はい。私はもう精神衛生上なるべく近寄らないようにしています。

    ループものの研究本があるんだ。「二度挑戦してるのだけど、まだ読み切れてない」っていうのがすでにループっぽくておかしい。ループものって、日本だけじゃなくて、海外の映画とかも結構あるんですよね。私は好きでよく見るんですけど。人間が潜在的に持っている何かかもしれないなーと、ずーっと気になっています。結局、「時間」ってそれぞれの人の主観的なものでしかなくて、でも私たちにとって時間って世界を構成する大事な要素で、そんなあいまいなものの上に生活していることが漠然とした不安になってるんじゃないかな、とか。

    新感覚派、Wikiの説明がむずい……。現実の再現だけのリアリズムではなく感覚的描写・表現形式を重視する=ほとんどの現代小説、というのはわかりました。でも、「新感覚派」っていう言葉自体は終焉しているんですね。あ、でも、川端が脚本を書いた新感覚派映画『狂つた一頁』むっちゃ見たい。

    >>同じところ(時間)をぐるぐると回っているだけなんじゃないか
    って、こういう日々の感覚が自身の人生に対する不安と結びつくと人って死にたくなっちゃうのかな、とも私は思える。

    たぶんどこまでいっても出口のない不安を抱える人はそうなってしまうのかもしれないです。幸いにして私はとても能天気なので、そんなことにはならないのですけど。

    ああ、鎌倉のマンションの場面、私もすっごい気になりました。これはちょっとわかんないです。そこまで読み込めてない。ただ、イチローたちきょうだいの不思議な能力は、本当のこととして描いていると思います。絵波の現象がいちばん客観的に見て明らかなので、だとしたらループもワープも本当のことなんだろうな、と。いずれにせよ、現象の成り立ちや有無が重要なのではないのですけど。

    ところで、「○○って〇〇だよねーみたいな下世話な考察的なこと」ってなんですか?
  • 真紀子の母親の毒親っぷりもリアルで怖かった。自分の意に沿わない話題は聞こえないふりするってめちゃリアル。気を付けなきゃって思った(爆)

    『ジョゼと虎と魚たち』はテレビで観たぞー。(あ、アニメ!? なんで? 映画化した当時さえ、なんでこんな古いの持ち出すのっていわれてたのにまた……)
    妻夫木くんと池脇千鶴良かったよね。水族館を楽しみにしてたのに閉まってて、「なんでやー」って癇癪おこすジョゼをおぶってる妻夫木くん(恒夫)の表情がさ、勘弁してくれよ~もう付き合ってらんねえよ~って心が引いてく(そしてそれを悲しんでる)のがありありで。あれ、たまんなかった。

    >「いるような、いないような」
    こういう男を好きになると蛇の生殺しな目に合うんだよねー(-_-)
    イチローって今後もずうっとこんな感じなんだろうなあ。能力がなくなったとしても。

    『時間ループ物語論』おもしろいはおもしろいです。海外の小説や映画、アニメとふんだんに作品を取り上げてあらすじも紹介しつつ解説するから。でもやっぱり難しくて飽きちゃう。また挑戦したいな。
    いわれてみると、時間の感覚に対する迷いも「主観」の発見、相対性理論からだよね。ループ物語の発生もそのへんからなのかなあ。

    日本の文芸思潮史って戦後で止まってるような。2020年現在ってどうなってるんだろう。論文雑誌をあたればいいのだけど、そこまでするのはメンドクサイ。
    20世紀の文学を総括すると、「心理学の世紀」「フロイトの世紀」なんだって。そろそろ21世紀文学のかたちが見えてきても良いだろうけど、どうなんだろうな。

    あと、ドリームキャッチャーのことも気になるんだ。冒頭で出てきて、真紀子がいろいろ想像して。吉永隼人が身につけてる描写が彼の登場シーンと、絵波と真紀子が初めて映画サークルに行ったときの場面で出てくるんだよね。どういうモチーフなんだろ。悪夢を捕らえ防いでくれる……真紀子はたびたび自分が殺されそうになる夢に怯えるのだものね。うーん。

    あとあと赤色の扱い。赤い車、赤いスカート、ワンピースって、みすずさんの色的な扱いで、将春さんも真紀子も赤が好きって言ってて、真紀子の部屋の小屋の色で。映画サークルで裏切り者って追い出された(?)男も赤いTシャツを着てる。一方で真紀子の母親が嫌いな色で。反逆のモチーフ的な扱いなのかなあって。

    イチローって文ちゃんが好きだよねーってハナシに決まってるじゃないかあ。
    ちなみに、かよ子さんは実は、あの会社で仲悪そうだったヒト(名前忘れた)のこと憎からず思ってたんじゃ、みたいな~(恋愛脳)
  • 真紀子の母親、怖すぎです。リアルだと感じてしまうことが(実際に身近にいるわけではないのに)なおさら怖い。これはでも、一般的に年を取っていくと多かれ少なかれあるんじゃないかと。気を付けよう。

    なんでもかんでもアニメにしちゃえばいいと思ってない? って感じ。たしか最近漫画化されてそのアニメ化だった気が。なんでもかんでも漫画に(略)。そういえば、『マチネの終わりに』も漫画になってて、笑っちゃいました。い、いいのか、それで?

    私も気になってWikiってみたら、ループもの、いっぱいある。定義があいまいだからかもだけど、これはかなり昔からある概念かも。ちょっと違いますけど、胡蝶の夢ってあるじゃないですか。私たちが感じている現実がいかにあやふやで頼りないかっていう、潜在的な不安みたいなものははるか昔からあるのかも。

    「心理学の世紀」「フロイトの世紀」かぁ。フロイトであって、ユングじゃないんですね。んー。結局は個人の内へ内へっていう感じがします。そういうのは結局、日本だけじゃなくてワールドワイドでも似たようなものなのでしょうか。21世紀文学、どうなんでしょうね。考えてみると面白いかも、です。

    ドリームキャッチャー、忘れてた。でも、気になりました。冒頭でいきなり出てくるし。あれ、吉永隼人が拾ったっていう単純な話じゃないですよね。ドリームキャッチャーって、でも、あんまり一般的じゃないですよね。私、実際に見たことないです。スティーブン・キングの小説にずばり『ドリームキャッチャー』っていうのがあって、映画化されて観に行ったんですけど(おもんなかったー)、その映画のなかで初めて実物を見て、それっきりです。それはいいんですけど。夢が重要なモチーフになってることはわかるんですけど、でもそっから先、頭が回らない……。

    私、冒頭の「それが始まりだとはわたしはまだ知らず」っていう書き出しすごく好きで。あと最初の第1節の終わり、「わたしのほかにも誰か、その瞬間を、知った人はいるだろうか」っていう文章もすごく好きで、その瞬間っていうのは(真紀子の想像の中で)ドリームキャッチャーを誰かが拾った瞬間のことなんですけど、で、たぶんこれは何か別のことを表しているのだと思うんですけど、わからない……。

    赤は、そういう意味あいですよね。真紀子の部屋の壁はヒョウ柄になってしまいますけど。

    会社の人、林さんですね。私も実は、ちらっと思いました。かよ子さん、実は林さんとくっつくんじゃないかって。でもさすがにかよ子さん中学生の男の子いるし、いや、ないない、と思いました。なんかでも、そう思ってしまうのが不思議。そういうあいまいさって、結局は人物のリアルさが根底にあるからなのかなーと。
  • そういや、ちょっと前に読んだアニメ聖地の記事で、原作となるラノベや漫画が底をつきアニメ業界もどん詰まりって書いてあったっけ。直接にアニメやマンガ原作コンテストって増えたし、コミカライズラッシュだし、とにかく絵にしちゃえっていうの感じるね。そこまで人は本を読まなくなってるのか。逆に考えれば、メディア化から原作への流入も見込めるってことなのかな?? ウィンウィンならいいのだけどね……

    第1節は文章も場面もすごくいいよね。すでに真紀子とイチローのゆる~い感じがあるし。妙にわくわく感をそそられる。
    ドリームキャッチャー、吉永隼人には繭子さんが持たせてるのだろうなーって感じた。なにやら呪術めいた怖さが(どんだけ繭子さんがコワイねん)
    「胡蝶の夢」な概念で、夢と現実の境界もあやふやで歪んでるってここでも「歪み」が強調されてるのかもね。夢なのか現実での体験なのかはどっちでも良いんだって。

    だよね。とにかくリアル。だからちょっとした描写で妄想が広がっちゃう。小説として最上だと思う。これ。
    なのにキャラ立ちもちゃんとしてて。(絵波かわいいよねー絵波。将春さんがあんな人だから余計に吉永隼人がお父さんだったらって考えちゃったのかなとか。「繭子さんがお母さんだったら」は口にしてたし。将春さんの魅力は多分若い子にはわからないものね。それもお父さんとなれば。顔が良くてしゅっとしてて(一見)リスペクトされてる文化人なお父さんのほうがいいだろうなーっていう)

    純文とエンタメのおいしいとこ取りに成功してる作品だと私は思うのだけど、でもそれは人によってで感想は別れるのだろうね。

    いまふと思ったけど、ここに出てくる男性キャラってみんなしょーもないよね。真紀子のお父さんなんか特に一般的なしょーもないお父さんの典型。みんないろいろしょーもない。そんな中でイチロ―がいちばん成熟(達観)してるといえるのかな。将春さんが突き抜けてるしな。
  • そもそもオリジナルが少ないというのが悲しいです。最近はでも、ちょっとずつ増えてきているような気がしないでもない、かも。どうだろ。結局は、使えそうなものが底をついてきたということなのか。漫画、いっぱい出てるように見えますけど。メディア化から原作へ、はありますよね。何もしないよりはあると思うから、原作者はやっぱり嬉しいのでは。

    第1節はいい意味で入念に作りこまれている感じがします。ほかは、基本的に、前に書いたみたいに、感覚なのか計算なのか、よくわかんない感じ(でも心地いい)なのですけど。

    >吉永隼人には繭子さんが持たせてる
    なるほどー。なんかもう怖すぎて、逆に、私たちこんなにビビってるけど、実はそこまでじゃないのでは、っていう気がしてきましたよ。すげぇキャラです。

    この人の人物のリアルさ、なんなんでしょうね。『わたしがいなかった町で』でも、それは思ったのですけど、こちらの登場人物って、女優だったり、変な能力を持ってたり、ちょっと、いや、かなり個性的ですよね。でも、手が触れられそうなくらい、その人のことを近くに感じるんです。不思議。

    私は文さんが好き。だから、最後のループで文さんの肩に手を置くところ、すごくよかった。女性陣はみんないいですよね、インパクトという意味では繭子さんも含めて。そんで、確かに、ここに出てくる男性キャラは、ぱっとしない。でも、将春さんは、私、むっちゃかっこいいと思ったんですけど。若い人にはわからないかなー。特に、みすずさんへの接し方が日本人離れしているっていうか、海外だといそうじゃないですか、こういう人。私は単純に素敵だと思うんですけど。イチローは……どうなのかなー。私はちょっと読み切れなかったです。もう一回読みたいですね。

    >純文とエンタメのおいしいとこ取りに成功してる

    成功してますよね。今って、でも、どうなんですか? 純文とエンタメの要素、どちらも合わせ持った作品ってそれほど珍しくないのかと思ってたんですけど、ただそれっていわゆる中間小説ってことで、また位置づけは違ってくるんでしょうか。例えば、角田光代の小説って、純文学ではなくて、大衆小説ですよね、でも、エンタメかって言われると違う気がしますし。うー。
  • 私も文さんが好き。幸せになってほしいな。あと、真紀子ちゃんとずっとお友だちでいてほしいな。(おかんか)
    将春さんかっこいいよねー。私もめっちゃかっこいいと思う。みすずさんとの関係を含め憧れ(?)ちゃう真紀子の気持ちがわかる。いいなー。一緒にお肉食べにいきたい。でも子ども目線だとああいうお父さんはキツイと思う。文さんイチローくらいになれば突き放して人物評価できてる感じだけど、絵波はまだそこまではって気がした。

    そもそもの純文の話に戻ると、純文学ってもともとは私小説・心境小説のことでものすごく範囲が狭い。更には「美的形成に重点をおくもの」をさす場合もあると。
    で、今では芥川賞=純文学って認識だけど、そもそも芥川賞は「すぐれた小説」に与えられるもので「純文学」だけが対象ではないのだけど、菊池寛は「芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である」といったらしい。でも誰がどっちで受賞するとか、直木賞との兼ね合いのようにも見えるし今日の「芥川賞=純文学」の図式は出版社・文芸誌がそうしたくて作ったのだろうし。私たちみたいに公募を目指してると賞のカラーの違いを意識しなくちゃならないけど、そこまでコアじゃなく本を読む人たちからしてみればそんな線引きは関係ないのだろうし。面白ければいいんだよっていう。(出版社にしても売れればいいのか。だから選考委員に文芸評論家を入れないのか)

    で、純文にはない読む人にとっての面白さ、物語性を備えたのが「中間小説」。
    だとすると、芥川賞受賞作だって、あらすじを見ただけでもこれって中間小説じゃね?というのがほとんどで、ここでもう、階層がズレてるのだと思ってしまう。でも、そもそも初期の受賞作だって中間小説じゃね?はあったはずだからね。うん。そもそも芥川賞がよくわからない賞ってことで。

    でも階層がズレてるのは間違いなくて、純文学扱いされてる中間小説がとても多いと思う。読書家らしき人のブログなんかだと「純文学」「中間小説」「エンタメ」と分けてる人がちらほらいて、覗くと面白い。まあ、そんな線引きは読書を楽しむのには関係ないのだけど、その作品に見合った読み方はしなくちゃだものね。読書慣れしてれば意識しなくてもそういう読み方も身に付くものだろうけど。
    でもちょっとあやふや過ぎるのは、よく分かってない人の中には「中間小説」=「ライト文芸」って認識もあるらしく。カテゴライズすればするほどこうい
    う誤解もうまれるって悪い例だよね。
    あ、でも。便利だから階層ってコトバを使ってはいるけど。気を付けなきゃならないのは、決して「純文学」が文学の最上位なわけではないのだよね。文学のおこりは口承文芸だっていわれるように文学はそもそも大衆のものであって(最初の小説なんていわれてる『源氏物語』だって宮中の女性たちが読んで楽しんだのだものね)、純文はむしろそこから乖離したものであって。だから私は読者ウケを意識したものは純文ではないと思っているし、でも、世間一般で純文といわれてるものに対しては一応「純文なんだね」と受け入れてるわけではあるのです。うう、伝わってるかな……
    とすると、そもそもの「純文学(=私小説)」って作者の体験を作品に昇華させるいちばん短絡的な装置といえるのかなあ。

    話がズレちゃったけど、『パノララ』は物語性を加味したっていうよりも、不思議要素だったりキャラ立ちだったり設定盛り盛りだったりエンタメ性を付加して文学としても成り立ってる、という感じがした。だからこの作品でものすごく可能性が見えた気がして私は嬉しかった!
    『私の中の彼女』は純文寄りの大衆小説(中間小説ってことね)だと感じた。で、確かにエンタメではない。昭和臭がすごくて、80年代のポピュラー文学化の流れにも合ってなくて、かといって懐古的ってそこまでなわけではなく、いろんな意味で中間的なのかも。
  • そっかー。子ども目線だと将春さんキツイかー。絵波は留学してましたから。でも、彼女はちょっと違う感じがしますね。

    私小説・心境小説については、以前レクチャーを受けましたから、覚えてます。っていうことは、もともとはものすごく範囲が狭いんですね、純文学。私はこれまでばくっと芥川賞(候補含め)=純文学って捉えてたんですけど、それってかなり無理があるということですよね。お話読んでて思ったのは、いっそのこと、本来の純文学ってもう今はほとんどないんだよーって誰かがはっきりさせてくれたらいいのにって。まあ、そんなわけにはいかないでしょうけど。たぶん実態は、広い意味での純文学はもう今は中間小説ってことでいいんじゃないかと思うんですけど、ただ、「中間小説」って言葉、あんまりメジャーじゃないですよね。うー。

    >決して「純文学」が文学の最上位なわけではない

    そこは私も気を付けなければならないと思います。これは文学だけに限らず、ほかの表現形態についてもいえることだと思っていて、気を付けなければこの罠に足をすくわれてしまう危険性を常にはらんでいるのだろうなと。以前、ジム・ジャームッシュっていう映画監督が、「芸術にヒエラルキーは存在しない」という意味のことを言っていて(正確な言葉は覚えてない)、私はその言葉を忘れないようにしなきゃなーって思ってます。

    >そもそもの「純文学(=私小説)」って作者の体験を作品に昇華させるいちばん短絡的な装置

    だから私は私小説が嫌いなんだろうな、と改めて思いました。私、別に、他人の個人的な体験の昇華に付き合いたくはないです。「大変だったね、でもそれは一人でやってね」って思っちゃう(ヒドイ)。でも心境小説は好き。

    もう純文学はそもそもの定義である私小説と同じにしちゃって、ひとつのジャンル(SFとかミステリとかと同じ)にしちゃえばいいのにって思ってきました。

    ですね、『パノララ』ってあまり物語性は感じられないです。でも、すごくエンタメしてる。エンタメにもいろんな切り口がありますもんね。いろんな切り口で「エンタメ性を付加して文学としても成り立ってる」のって増えてるんじゃないかと思います。なんか、もっと読まれてもいいのにって思いますよね。フツーに面白いのに。ちなみに今、『持続可能な魂の利用』っていう小説を読んでいて、これもエンタメ性のある文学で、むっちゃ面白いです。
  • はっきり言ってくれそうな人は追いやられてるのだろうなあ、きっと。

    だね。書きながら絵画でも音楽でもそうだよなって思ってました。

    私なんかさ、ここでブンガクブンガクって連呼してるけど、好きなのは小説であって文学ってものを大好きなわけでもないのだよなあ、という。そんな私でも語らずにはいられないほどの現状っていう。うう。

    私も今、改めて思ったよ。「誰でも一生に一作は私小説を書ける」ってそういうことかと(遅いよ)

    私も私小説が嫌いだから近現代にはあまり寄り付かなかったのだけど。でも志賀直哉は好き。そして「死の棘」はすごかったー。私小説なのに面白かった。

    「エンタメ文学」って枠組みができるといいよね。そして「純文学」は商業から離れてひっそりと生き延びてくれればいいよって、思ってしまう。

    『持続可能な魂の利用』面白そう。そして作者の松田青子さんってロックな人なのね。こんな記事が。

    https://www.shosetsu-maru.com/interviews/141

    「おじさん」のせい。そーだそーだ。オンナを何だと思ってる! おまえらが意識改善しないからラノベがひどいことになってるぞー!!

    読みたいものがまた増えた。
  • >絵画でも音楽でもそう

    そうなんですけど、その中でも小説って一番面倒な気がします。絵とか音楽って、別に専門的な知識がなくても良いもの作れちゃいますよね。子供の絵ってすっごい自由で楽しいし、アフリカ原住民のプリミティブな音ってかっこいいし、ヘンリー・ダーガーみたいな例もある。でも小説ってそうはいかないじゃないですか。ある程度の教養みたいなものがどうしても必要で、だから厄介なんだろうなーと。フィジカルと結び付きやすいもの(絵画や音楽)って、やっぱ強いなって思います。

    そうですね。私も別に文学なんてどうでもよくて、自分が好きな小説があればそれでいいはずなんですけれども。でもついつい語ってしまうのは、上に書いたような厄介な存在ゆえに、放っておいたらとんでもないことになりそうだから、なのかなと。別に自分にどうこうできる話じゃないのに。

    >「誰でも一生に一作は私小説を書ける」

    そうなのです。これと同じ意味の言葉を初めて聞いたのは(っていうか読んだのは)学生の時、北野武のインタビューでした。彼が何本目かの映画を撮ったときで、正確には「三十年くらい生きてりゃ、誰だって一冊は小説が書けるんだよ」みたいな感じで、そのあと彼はこう続けました。「でも、二冊以上書ける奴はほとんどいねえけどな」。なるほどなーと思いました。そして、できれば私はそちら側に――二冊以上書ける側にいきたいと、思いました。

    松田青子さんの記事、ありがとうございます。すごくよかった。私も読みたいものがいっぱい出てきて、とりあえず『持続可能』が終わったら、『死の棘』を読もうと思ってます。『持続可能』まだ終わってませんけど、すごいです。松田さん、ゲストにお呼びしたいくらいです(って何様?)。
  • もちろん、危機感はみんな感じてて、教育現場では読書の習慣を子どもたちに身に着けてもらおうと試みているわけですが。
    出版社にもいろいろ頑張ってもらいたいところではあるけれど。

    『死の棘』はファンが多いのか、関連本もたくさん出てるよね。どっぷり浸かってしまいそうで怖い。
  • 『死の棘』は好きな人、いました。そういえば。『持続可能』読み終わったので(素晴らしいです)、『死の棘』読みます。とりあえず第二章だけでもいいのかな?
  • 私は知識が古いから死の棘といえば短編の「死の棘」だったけど、今は長編をいうのじゃないかな。これも断続的に発表された短編の集まりなのだねー。
    あちこちから出版されてるけど、やっぱり全12編をまとめた新潮文庫版がよさそう。
  • 新潮文庫版を読んでみます。

    新しい読書メモ登場ですね、そちらに移行しまーす。
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