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飯田河原の戦いの不思議について思ったこと。

さて、武田信虎映画化にもなりまして。でもコロナの影響で信玄500年は不完全燃焼な年になってしまいましたね。

信玄が生まれた年に起こったとされる飯田河原の戦い。
信虎が侵攻した1万の今川軍をわずか二千の武田軍で迎撃した戦いですが
単純に不思議に思ったことがあります。

今川軍は
なぜ甲斐に1万もの大軍で迫ったのでしょうか?
なぜ福島氏が大将として侵攻したのでしょうか?
なぜ8月の終わりから合戦まで3か月もかかったのでしょうか?

だって信長との桶狭間の戦いの今川軍の上洛に伴う軍数が、二万から二万五千ではなかったかと言われているのに(信長公記だと四万五千)今川軍は氏親が大将で出陣もしていないで、有力な家臣とはいえ、福島衆を中心にしながら1万ですよ。
そのころの駿河がいくら安定していたとしても、4年前から三河方面に侵攻しては一進一退してますし、本気で武田を滅ぼすつもりなら氏親本人が侵攻して、一気に
信虎を攻めれば簡単に甲斐1国を切り取れたと思うのですよね。
まあ家臣の福島が、自分の力で甲斐を切り取って自分が領主に成り上がるという夢を持ったという事だってありえなくはありません。
実際北条早雲(伊勢宗瑞)は氏親の家臣でありながら、相模を自分のものにしちゃってますしね。

まあ、記録自体がみーんないい加減だったんだよって言われちゃうと
それまでなんですが、まざー信玄では、第2章にてこの謎を
大井椿夫人なりに謎解きしてみます。

まあ、何でこの戦に合わせて、甲府の町に時宗(この時代ではまだ時衆ですね)のトップである不外上人がわざわざ来訪し、さらに今川軍の退却のために骨を折ったのかというのがポイントだと思ったのです。

もちろんこのお話はフィクションですから、史実として伝わっていることと
違ってるところが多々あるかもしれませんが、あんまりだから修正してという
内容がございましたらご連絡くださいませ。

まだ信玄君は目も空いてないので、子育て編になかなか入りません。

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