こちらは真面目なお話となります。カクヨムとは直接関係ありません。読みたい人だけ読んでください。
今日は8月15日。終戦の日。太平洋戦争が終結してから79年となりました。戦争を肌で体験している方も年々少なくなっているのは間違いありません。
平成生まれの私は、直接的に戦争を知っているわけではありませんが、今現在も続いている戦争――日本から見て西側で今も続いているそれ(名指しはしません。ほとんどの方が知っているでしょうから)について思うことならあります。
「戦争が終わったあと、両国の人々は一体どうするのであろう?」
日常のささいなケンカでさえ終わらせても不満が残るように、国同士の争いが終わっても両国の住民同士が和解しあえるとは思えないのです。
ここで私の心に残る作品を紹介させてください。ヴィクトール・フランクル氏の『夜と霧』の一場面となります。
収容所を出たフランク氏と仲間の男が、麦畑の近くにある道を通っていたときのこと。麦畑を避けていこうとするフランクル氏に対し、彼の仲間が麦を潰しながら畑をつっきろうとします。
「どうしてそんなことをするんだ?」とフランクル氏。それを受けた仲間の男は、
「おれは収容所でひどい目にあわされたんだぞ。なら、麦を踏み潰すくらい問題ないだろ」と答えたそうです。
その直後のフランクル氏の文章はこうでした。
『不正をされたからといって、不正をしていいはずがない。そんな当たり前のことすら、収容所ぐらしを経験すると忘れてしまう』
『彼(仲間の男)はたかが数千の麦粒と思っているのかもしれないが、そんな気持ちがいずれはより悪い結果をまねくのではないか、と思えてならない』
以上です。少し言葉遣いを変えていますが、内容は変えていません。
ヨーロッパで戦争が終わって間もない頃のエピソードだったと記憶しています。
フランクル氏が何を言いたかったのか。私なりの推測ですが……。
潰される対象が ” 麦粒 ” ではなく ” 人の命 ” に変わっていくことをおそれたのかな、と思いました。
「やられたからやりかえしてもいいと考える危険性」を、フランクル氏は感じたのかもしれません。
どうなのでしょうか。これを読んでくださった皆様にも問いたいのです。
戦争がどんな形で終結したにしても、フランクル氏が危惧したような事態はきっと起こるだろうと、私は考えています。
「歴史上の終戦」を迎えたとして、「人々の心の終戦」が訪れるのは、一体いつのことになるのでしょうか?
今日のお話は以上となります。長文、失礼しました。