• に登録

自殺が不可能になった世界PT.1

今日も、また一人飛んだ。カメラ越しに、その一部始終を眺めながら溜息をつく。高速で地面とぶつかった体は大きく弾け、体液を四方八方に広げていた。
なにも焦るようなことはない。じきに回収されて、何事も無かったように跡を消されるだろう。そして、今横たわっている彼も、明後日辺りには顔を見せるだろう。

西暦...いや。和暦、京和3年。バイオテクノロジーとナノマシン、材料工学や製薬学が大きく発展し、日常生活をおくる大衆にまでその恩恵が普及した時代。かつての世界境界戦争を経た世代も死に絶え、世代交代を終えた時代。
戦争による特需により、安く品質の高い労働力を買われた日本は、食料品や医療品重工業製品を中心に輸出を増やし、世界の先進国として、十指の中に入るほどのGDPと経済成長を遂げていた。

日本国民は、幼少期から人工的なデバイスと組織を移植され、成人する頃には胴体や四肢の筋肉、骨格、皮膚などを人工物に置き換える者が大多数となっている。
そのおかげで、事故や事件による重傷者は激的な右下がりを記録し、それらを原因とする死亡者は、0人という喜ばしいデータが年々続いている。

当然の結果でもあるのだが、自殺者も年を追うごとに数を減らし、一年に一人いるかいないかにまで数を減らした。愚かな人は、「医療と技術の充足によって、弱者の社会不安が無くなった」なんて言っているが、ただ単純に「死ぬための手間が、はるかに大きくなったから」が、自殺者数がほぼ0人になった要因だろう。
一般の人や社会学者ですら、自殺者が減ったというだけで社会不安が無くなったと決めつけて疑わないが、個人個人が必ず背負う苦悩やストレスが、社会から消えたわけではない。
彼らがそのように信じている原因は、自殺に関する情報やニュースが何者かによって制限され、自殺の話題に触れるようなことが極端に減ったからであろう。昔の自殺者数は2000人以上いたというデータは有名であるものの、社会不安の消えた素晴らしい国という政府のイデオロギーのために乱用されている始末。誰も、昔の自殺者が何を悩み、何を苦痛として文字通り身を投げたのか考えない。

実際に今も、昔の自殺方法としてメジャーであった「高所からの飛び降り」が後を絶たない。公的には「転落事故」とされ、「自殺」という言葉すら恣意的に排除した情報に書き換えられ、原因も「疲労」や「不注意」といった多くの人が持つ普通の悩みとして大衆に広まっている。

銃でもあれば、きっと容易に死ぬことができただろう。いま簡単に死のうとすれば、最低でも化学系の高度な知識と専門職しか入手のできない薬品を必要とする。

幼少期から自分の体の強靭さ、医療技術の偉大さをを実感していたにも関わらず自殺志願者たちは未だに、高い空を目指して放物線を描いていく。

私は、奇妙な興奮を感じた。

死ねないと確信しながらも、自殺しようと空を飛ぶ矛盾に対して。

「私も高所から飛び降りてみようか」と考えたこともあったが、私が体験したところで無意味なことだと理解していた。飛ぶ感覚を知ったところで、わたしには自殺しようとする彼らの気持ちは分からないし、自分の感覚は普通ではなく信用ならない。

こうなれば、彼らのような人達に直接会って話してみるしかない。

興奮が冷めないうちに、これからの行動指針を考え、一時的な眠りについた。

長く退屈な人生の中で、これほど興奮した夜は、きっと今日が初めてだ。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する