式子内親王は賀茂斎院経験者だったが、
藤原定家と恋に落ちてしまったと一般に思われている。
やっきになって否定する論文があるが、
皇女の恋はそこまでタブーなのだろうか。
時代は違うが後朱雀天皇と禎子内親王の間に生まれた
娟子内親王(1032~1103)は母后や姉弟
と同居していた御所を
脱走して3歳年下の源俊房の妻になったので
狂斎院といわれた。駆け落ちしないと結婚できない
のだろうが、これでは外聞が悪すぎる。
この内親王は俊房の正妻の座を一生保ったという。
醍醐天皇皇女で斎院退下後に陽成天皇の第一皇子、
源清蔭(884~950)に降嫁している韶子内親王
(918~980)は政略結婚だろう。年が離れすぎ。
じいさん夫が死ぬと、橘惟風と再婚したらしい。
なぜか醍醐天皇の12人の皇女のほとんどが結婚している。
次の村上天皇の皇女は2人が降嫁しただけ。
盛子内親王は藤原顕光の北の方となり、
一条天皇女御、元子や小一条院妃の延子らの母となったが
保子内親王と藤原兼家の結婚は破綻したという。
藤原道長の祖父、藤原師輔は臣下として
初めて内親王と結婚したことで有名。最初、4つ年上の勤子内親王と結婚したが、彼女を亡くすと伊勢斎宮だった妹の雅子内親王と結婚。為光ら4人の子女の母となった雅子にも先立たれると懲りずに村上天皇の同母姉、康子内親王に密通して
藤原公季ら2人の息子を産ませた。康子は高齢出産のせいで体力消耗したのか36歳の若さで死んでしまった。箱いっぱいの手縫いのしとうずが残されていて師輔は涙したとか。
三条天皇第一皇女の当子内親王が伊勢斎宮を退下後、
藤原道雅とうわさになったとき、父帝は激怒したが
世間の反応は
「退下したら別に自由でいいじゃん。」
という感じで、兄宮たちも
「父帝がなぜそこまで怒るのか理解不能だ」
と妹をかばったという。
もっとも、道雅は素行不良でのちに殺人の首謀者
になり、左京大夫という閑職に左遷されたので
父親の見る目は正しかったものと思われる。
鎌倉時代の伊勢斎宮で後嵯峨天皇皇女、愷子内親王
(1249~1284)は
退下後に異母兄、後深草と恋仲になり(とはずがたり)、
兄との関係が終わると西園寺實兼が通っていたという。
これで独身といえるのか? 事実婚に近いのでは。
「わが身にたどる姫君」に登場するバイセクシャル
の斎宮のモデルとされている。
明和町ホームページには
2人の間に娘が1人いたと書いてあった。
意外とおおらかだったようだ。