「冷やし飴を買いたい」と父が言い出したのは、私が大学生のときでした。
夏の暑い時期だったと記憶しています。私は「冷やし飴」の存在自体を知りませんでした。父が言うには、幼少時代に駄菓子屋で飲んだ冷やし飴の味が忘れられない、あの味を知らないなんて可哀想だ、とのことでした。
早速探してみましたが、近場では販売しているお店を見つけられず、ネット販売で関西から取り寄せました。
冷やし飴は、戦前には全国区で売られていた駄菓子だそうです。しかし、戦争で製造出来なくなり、戦後はほとんど関西地区でしか製造されなくなったようです。
さて、大瓶で届いた冷やし飴はドロッとしていて、黒蜜のようでした。これを水で割って、冷蔵庫でキンキンに冷やし、家族全員分をコップに注ぎ、いざ実飲。
一口飲んだ感想を正直に書くと、「美味しくない」でした。冷やし飴に含まれる麦芽水飴や生姜の独特の風味を、私は「苦手」と感じました。
そう感じたのは、姉妹や母も同じだったようです。
私がショックだったのは、それまではしゃいでいた父の顔が、一口飲んだ途端に曇ったことでした。父は首を捻り、少し居心地が悪そうに、黙々と飲み干しました。
私はつい、「美味しい」と嘘を言いました。父を不憫に思った訳ではなく、美しい郷愁の世界を壊したくなかったからです。
そのせいで翌日から、誰も見向きもしない冷やし飴の処理係になり、軽い地獄を味わったのでした。
子供の頃に美味しいと感じた味も、大人になってから知った「もっと美味しいもの」の前では、色褪せてしまうのでしょう。大人になってから食べる駄菓子の味は、目を輝かせて駄菓子屋の棚を眺めた子供時代の味には、敵わないのではないでしょうか。
それでも駄菓子は、幼い日の宝石のような思い出とともに、いつまでも煌めき続けるのです。