「わたし、嘘がつけないの」
あるヒトからそう言われて、びっくりした。
私から見て、その人は非常に嘘つきだったからだ。
嘘つき……と言ってしまっては大変に語弊があり、その人に対して失礼だ。
お詫びして訂正する。
そのヒトは、まったく「嘘」などついていない。
他人のポジティブポイントを的確に捉え、褒めることが非常に上手いのだが、その人が探し出した「褒めるポイント」が、どうも私にはしっくりこない。
ただ、それだけのことだ。
あるヒトは、Aさんが嫌いだった。
嫌いなのに、褒めるのだ。
褒めて褒めて褒めちぎり、そして褒め疲れて私に「助けて」とやってくる。
だから、わたしはあるヒトに言った。
「褒めるの辞めれば? 失礼にあたらない程度の距離を保てば良いじゃん」
そういう私へのあるヒトの答えはいつも
「そうだね。明日から、少し離れてみることにするよ」
……翌日、あるヒトはまた、Aさんを褒めちぎっていた。
そして、また「疲れた」と、私のところに来る。
「褒めるの辞めれば?」
私はまた、同じことを言う。
「体調崩したことにして、しばらく、話をすることをやめてみればどうかな?」
そう言う私に、その人は言った。
「わたし、嘘がつけないんだよ」
私は、「Aさんを傷つけずに、失礼に当たらないように上手いこと納得させるためにはAさんの方から気を利かせて離れていく状況を造れば良い」と思ってそう言ったのだが、その人にとって、「体調を崩したので、距離を置く」というのはAさんに対して大変失礼な、嘘をつく行為だということだった。
その人は何故、Aさんとの対人関係を保つのに疲れているのだろうか?
私には、それが疑問だった。
私とAさんはまったく交流がないが、そのヒトとAさんが仲が良いのは知っているし、ストレスを溜めあうような関係性には見えなかったからだ。
一般的に、「褒める」ことは素晴らしいことだと言われている。
ある脳科学者の方の説によると、「褒められると、脳が活性化する」のだそうだ。
Aさんはこの「褒められる」行為によって、あるヒトに心を開き、とても良い関係性を保っていたのだと思う。
ところが、わたしはこの「褒める」「褒められる」という行為がどうにもこうにも、苦手なのだ。
すごいものは直感的に「すごいね」と言うし、楽しいことは「楽しい」という。
だから自分も、直感的に「すげえ」と言われたい。
言われたほうの感じ方は人それぞれで、冷淡だったり、淡泊に見える場合もあるかもしれないので、素晴らしいと思ったものは少し誇張気味に「非常に素晴らしい!」と伝えることは多々あるが、褒めるところがないものに対して、わざわざ褒める部分を探してまで褒めることはしない。
19世紀の心理学者、アルフレッド・アドラーによると、「他人を褒めてはならない」という。
他人を褒めるというのは、自分のほうが立場が上で、相手の立場は下であると、無意識に位置づけるに他ならないそうだ。
ではどうするかというと、「承認する」
その人が行った行為に対し、「あなたはこういうことが出来たのですね」と、承認する。
そして、褒めるのではなく、その人の行動に対して自分がどう思ったのかを伝えるだけで良いという。(アイ・メッセージ)
私は、「ムリをして他人を褒める」という行為に対して嘘を感じた。
あるヒトはムリして嘘をつく(褒めるところを探す)程度の人間関係を保つなら、多少の方便を使ってでも距離を置け……という私に対して「嘘」を感じた。
人が「嘘」を感じるポイントは、千差万別ということなのだろう。
外国人から見ると、日本人は「本音を言わず、『建前』という名の嘘をつく」そうだ。
だけど、わたしは建前と方便を上手に使い分け、相手の建前と方便を上手いこと見抜きながらお互いの妥協案を探り合っていく……そういうことが上手に出来る人が、大人ではないかとおもう。
日本人に限らず、外国人でもホンネと建前、方便を使い分けて自論に持ち込む「心理・頭脳戦」を展開する映画や小説はいくらでもある。
自分のホンネを言うことはかまわないし、自分がどのように思っているかを相手に伝えることは必要なことだと思う。
だが、相手のホンネも受け入れる度量は自分に備わっているだろうか?
自分のホンネをわかってもらおうとするのであれば、それ以上に相手のホンネを聞く時間を設け、相手のホンネをわかる努力をしなければならない。
ホンネを言い合うにしろ、建前と方便で濁すにしろ、お互いの妥協点を探り、落ち着く努力は必要だ。
「相手が悪い」と、断罪するよりまず、どこで相手と妥協し合うか……。
妥協し得ない場合の距離点
それを探るための言葉のやりとりに……
人は、「心理戦」という名を付けて、ドキドキしているのかもしれない。