テントの中で朝を迎えた。
父さんと母さんは昨夜、樹のご両親と遅くまでたくさんのお酒を飲んでいたようで、まだ眠っている。
これは大チャンスだと思った俺は、まだ少し薄暗いテントの外へと出てゆく。
キャンプ場は整備されているので、基本的には危険が少ない。
だけど、万が一もあるとのことで、1人で出歩くのは、ダメだと口が酸っぱくなるほど言われていた。
でも俺はもう中学生で、そんなヘマはしないだろうし、1人でのんびりとキャンプ場を一周してみたい。
そんな気持ちに駆られて、俺はテントを抜け出したのだった。
そういえばこのキャンプ場にはちょっと深めの川があるらしいので、まずはそこを目標に歩いて行くと決める。
まだ自然の多い森を抜け、川を目指してゆく。
すると川のせせらぎの中に、奇妙なバシャバシャといった音が混じっているような気がした。
この音はなんだろうと思い、気持ち早足になって、川へ向かって行くとーー
その姿はまるで、魚のような、いや、人魚のような……そんな感想を抱いてしまうほど、スクール水着に、ゴーグル、帽子といった本格的な装いのソイツの泳ぎは見事なものだった。
水泳に詳しくない俺でも、本当にオリンピックの中継を見ているような錯覚に囚われるほどの見事なクロール。
俺はしばしソイツの泳ぎの連続に見入ってしまう。
やがてソイツは泳ぎ疲れたのか、川からフラフラと上がり、ゴーグルと帽子を外す。
俺が感動のあまり思わず拍手を送ると、
「ひぃっ!?」
髪が濡れてペシャンコになっている樹は、ひどく怯えた様子で周囲を見渡している。
「なにビビってんだよ、俺だよ俺!」
「ぁ、おいくんっ!? んん〜〜!」
「お、おい!?」
何故か樹は慌てた様子で川へ逆戻りをし、肩まで体を沈めてしまった。
「お、おはよう、おいくん……どうして、ここに……?」
「どうしてって、朝の散歩をしてたらなんか変な音が聞こえたから……」
「そ、そう……プクプク……」
樹は口の辺りまで川の中に沈んでゆく。
さすがにこれは注意してあげないとと思う。
「あのさ、樹、それあんまり体に良くないと思うぞ?」
「?」
「まぁ、ここの水は綺麗って評判だけどさ。でもプールと違って消毒されてなくて、いろんな菌とか微生物がいると思うぞ?」
「!?」
「あんまり飲み込むとお腹壊したりして。もしかしたら変な病気にもかかるかも」
プクプクが止まった。そして樹は顔を真っ青に染め始める。
「だから、早く上がってこいよ。な?」
「う、後ろ……」
「ん?」
「おいくんが、後ろ向いててくれるなら……」
なんだかよくわからないが、俺が後ろを向くことで、樹が川から上がるつもりとなるのなら……
「み、みないでね」
背中にすごく怯えた樹の声と、ヒタヒタといった足音が響く。
ようやく川からあがってくれたようだ、やれやれ……
「ほ、本当だよ! 本当に振り向いちゃやだからね!」
しつこいなぁと思った。
これはあれか? 時々、父さんが川遊びをする時に「押すなよ! 押すなよ! って、押せよぉ!」とノリツッコミしている、平成時代のギャクのノリなのか? 確かに樹のお父さんと、俺の父さんはすっごく仲が良さそうだし……昨日もお酒の席で「飲むなよ! 飲むなよ! 飲めよぉ!」としつこくやってて、母さんたちに怒られてたし……
その時、樹のものっぽい足先が視界の隅に映った。
「っ!?」
「振り向いてない。横向いただけ!」
スクール水着姿の樹を見上げてそう一言。
瞬間、樹の顔をはじめ、全身がまるで茹蛸のように真っ赤に染まる。
「や、やぁあぁぁあぁ!!」
「お、おい!?」
大声を出してまた川へ戻ろうとしていた樹の腕を、反射的に掴んでしまう。
すると、樹の細い体はつんのめり、俺自身もバランスを崩してしまう。
俺は咄嗟に両腕を伸ばし、樹の身体を思い切り自分のところまで引き寄せる。
「ぎゃっ!」
「おいくん!? 大丈夫っ!?」
「だ、だめだぁ……あとのことはよろしく……」
地面に背中から倒れ込んだ俺は、樹の体から腕を離し、目を閉じて、わざと死んだように項垂れてみた。
「おいくん!? 本当に大丈夫、おいくん!?」
樹は切羽詰まった声を出しつつ、俺のことをゆさゆさと揺らし始めた。
おお、やっぱり樹はノリが良い! まさか、こんなざわとらしい"死体ごっこ"に、こんな迫真の演技までして付き合ってくれるだなんて!
と、そんなことを思っている中、まるで雨のような雫が頬に当たってくる。
まさかと思って薄目を開けてみると、
「ごめん、おいくん……僕のせいで……お願いだから、目を開けて……おい、くん……ぐすん……」
おいおいまさか、樹は本気で……?
「うっ……うっ……ひっく……」
「じょ、冗談だよ。本気で泣くなって……」
なんだかふざけた自分の方が恥ずかしくなって、樹から視線を外しつつそう一言。
すると樹は俺の胸におでこを擦り付けてきて、ワンワンと泣き出す。
「でも、こうなったのは樹も原因があるんだからな? 樹が逃げようとしなきゃ……」
俺がそういうと、樹は我に返ったのか起き上がる。
だがもう逃すまいと、俺は樹の腕を掴むのだった。
「どうして逃げようとしたのか言うまで、この手は離さないからな!」
「ううっ……だ、だってぇ、恥ずかしいから……」
「恥ずかしい? 何が?」
「あの、その、えっとぉ……こういう格好を……」
つまり、樹は水着姿を見られたくないから逃げ出したと。
どうやらそういうことらしい。呆れてものが言えなかった。
「あのなぁ、樹、お前ちょっと自意識過剰すぎ。そういうことはもっと、こう、なんだ……大人の女がいうことだ!」
実際、樹の太ももは水泳のやっているからか引き締まっていてちょっとだけ見入ってしまうものはある。
だけど他はたいしたことはない。正直、女物の水着を着ている以外は、俺と大差がないと断言できる。
「それにこれからは観客とかいっぱいいる大会にも出ることになるだろうし、そういうのじゃ困ると思うぞ?」
「い、良いよ、別に……僕、そういう大会とか興味ないし……」
「なに言ってんだよ勿体無い!」
俺は真剣に樹の目を見つつ、そういった。
その言葉受けた樹は、少し意外そうな顔をしている。
「さっきの樹の泳ぎ、素人の俺でもすげぇって思った! かっこいいって思った! このまま泳ぎを続けてゆけば、多分、オリンピックで金メダルだと思う! だから興味ないとか、そういう勿体無いこというなって」
「……ほ、本気で、そう思ってくれてる……?」
「ああ、本気だ! んで、自慢させろ! 俺の"友達"は水泳の金メダリストだって!」
言った後で、少し調子に乗りすぎたのでは?と思ったのは、俺だけの秘密。
何故なら、さっきまでおどおどしていた樹の表情に、真剣味が現れ始めていたからだ。
「……わかった! "友達"のおいくん、がそう言ってくれるなら、僕頑張るっ!」
「よぉし、よく言った! じゃあ、これから早速トレーニングだ!」
「トレーニング?」
「おう。これから俺が、樹のことをジロジロとみてやる。それで恥ずかしさを克服するんだ!」
「え、えええーー!?」
さっきまでの真剣な様子はどこへ行ったのやら、樹は顔を真っ赤っかにし、目に涙を浮かべて情けない声を響かせる。
「耐えろ、樹! これはお前のためなんだ!」
「ううー! うううー! 恥ずかしいよぉ……! こ、こういうの、視姦って言うんだよぉ……!」
「しかん? なんだそれ? 知らん! 良いから恥ずかしくなくなるまで、俺に見られ続けろ!」
「ううっ……はぁ、はぁ………んんっ……おいくんの、ばかぁ……!」
ーー結局、いくらやっても樹は身体をクネクネさせるだけで、なかなかうまく行かなかった。
これは困難なトレーニングになりそうだ。
でもこれが成功した暁には、将来俺は金メダリスト"木村 樹"を育てた友人として、堂々とインタビューに答えることができるだろう!