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うまくいくことの価値


 創作をはじめ、自分のしたことがうまくいってほしい、ヒットして欲しいという願望を抱くのは、至極当然のことだと思って生きてきた。

 しかし、昨今の流れを振り返ってみるに、その思いすら怪しくなりはじめてきている。

 早い話「うまくいく」ことに継続的な価値が生まれなくなったのだ。
 確かにヒットすれば物凄い嬉しいと思う。自己顕示欲、承認欲求、すべてが満足されることになるだろうから。
 でもそれだけだ。ずっとじゃない。それは一時的な「泡」だ。膨らみ続けても、いずれかはパンと弾ける、そういう存在でしかない。

 今に始まった話じゃないだろ、と思うわけだが、昔の「泡」はそれはずっと頑強だった。なぜなら、複製が難しかったから。今ほど機会が均等じゃなかったから。皆が同じスタートラインに立つこと自体が考えられないことだったから。

 だから「うまくいく」ことはごく稀少なもので、そうそう塗り替えられることもなかった。
 今はもはやそういう問題ではない。
 個人や組織の「うまくいった」ことは、タペストリーの模様の一つ程度にしかならない。当人は大喜びするかもしれない。私という存在が受け入れられたのだと。
 でも世間はその模様にそこまでこだわってないかもしれないのだ。


 AIどうのこうのの話じゃない。
 仮にうまくいかなかろうが、うまくいこうが、それは「○○型」と分類された上で、順位付けされてしまうのだ。
 当然だが、「うまくいく」こと自体は素晴らしいことで、みんな拍手をする。だがその拍手を受け入れる現代人は、喜びの裏でこんなことを考える。

「この拍手は一体いつまで続いてくれるのか」

「うまくいくこと自体」を目的とする人は隘路に追い詰められる。永遠にうまくはいかないのだ。
 何十年か前だったら、向こう一年はその本一色になるような話題作だろうが、おそらくは一カ月持たない。

 次がある。というより、次が見える。
 今まではベールに包まれて、良くも悪くも人を浮かれさせるほどの力を持った幻想の力は、今となってはかなり消え失せた。

 ただこれが「平等」なのだとも言える。富は二極化が続くとしても、もはやその富を持つことによる幸福は、充実し過ぎる統計データによって、均されている。
 どころか、今となっては下手に名が売れると「有名税」という名の監視網が敷かれる。
 秘密もまた幻想を保っていたわけだが、洗いざらい覗かれ、分析され、みるみるありそうなものになって、価値を失う。

 となると、個人的な「良き」、あるいは特定の誰かのための「良き」の探究に進んでいくのかもしれない。
 うまくいった、うまくいかなかったという、ふるいわけの前の時点、何かをした(出した)時点で、目的が達成されるようなもの。
 実験的な試みは、その実験(過程)自体が既に目的であり、その成否は大した……というと言いすぎかもしれないが本質的な……話ではないのだから。


 独り身というのは、この探求において良い点も悪い点も併せ持っている。フットワークの軽さは、実験をするのには持ってこいだ。今すぐラボを立ててもよいし、危険物を持ってきてもよい。何の支障もなく試せる。
 しかし、自分の中だけで実験し、その反応も自分で見る、それを繰り返すというのは、実際のところ、かなり虚しい。脇腹を自分でくすぐってみても、まったく笑えてこないのと同じことだ。

 相手がいると、その点はかなり改善される。相手の目線が入るだけで、自分を取り巻く視界はかなり広くなる。自分にとっての予想外をくすぐることも多々あることだろう。世間全般を喜ばせるのは至難の業だが、その人を喜ばせるための実験であれば、続けられる、のかもしれない。
(「その人」とはいっているが、別に動物でも植物でもモノでも何でもいい)


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