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「自主企画」の意義とその目的について

 私はつい昨月から、自主企画「文学の蟲」という文学的交流の場を隔週設け、多くの方々にご参加頂いております。

 そこで、当サイト「カクヨム」における「自主企画」について、私なりに考える意義と遂げるべき目的について、ここに述べたいと旨します。

 ここで叙述する事柄に関して、様々な方の意見や感想など頂けましたら、これもまた文学的交流の始点ともなりますから、誠に幸いに思います。


【1】自主企画の定義

 当サイトにて、全てのユーザが企画、参加することが出来る文学的交流の場。

 企画者は企画名と募集要項を自由小論の形式で記入し、終了日程を設定することで企画を公開できる。

※以下一節は私見
 要項という「小論」は、参加者への呼びかけであると同時に、自身の文学的問題意識の表明ともなる。つまり、企画要項は一種の文芸批評でもあり、創作の方針表明の場としても機能する。

 参加者は自身の創作物を選び、企画者の設けた要項条件を満たすことを確認した上で、その企画へ応募を行う。


【2】自主企画の特徴

・脱ヒエラルキ的並立性
 全てのユーザが読者であり、創作者であり、また企画の創設者である。ユーザはその3つの役割から自由に選択を行い、所謂「読専」などの立場も広く受容される。

 この様に企画者、参加者、読者、作者などと区分されるユーザは包括的にまたいだ立場を選び、誰しもが対等な文壇に立つことを実現することで、自主企画における自由な語り場が補完されるのではないか。私はこれを脱ヒエラルキ的並立性と示した。


・文学的実践の能動性
 企画者は要項の内に、自身も当企画へ積極的に参加する旨を示したり、参加者夫々が所謂「読み合い」を行うことを推奨したり、企画者自身の作品らを紹介する場合が多く、単なる「本棚」の役割を果たす企画自体は極めて少数派である。

 自主企画にては文学的主体性をもって、夫々が「書く」「読む」「語る」といった反応を残すことで、複相的な当事者意識に基づいた文学的実践を遂げることができるのではないか。


・文学的キュレーション
 また企画者自身が自ら読みたいと願う内容を、そのまま企画要項とし、自分の趣味嗜好に合う傾向にある作品を応募する、検索ツールの様な役割も果たすことが可能である。

 文化的カテゴライズは、その文学カテゴリの興隆を下支えし、それは創作者・読者・企画者に対しての文学的恩恵を与える。その恩恵とは「書く」「読む」「語る」の機会を創出し、それがまた新たな文学における能動的発露を生み出すと云う連続した循環性を生むのではないか。


【自主企画の本質について】

 自主企画とは、「書く」「読む」「語る」を両立させながら、それを誰もが創り出せる公共の文化空間として提示する仕組みではないか。制度や組織に依存せず、自律的かつ私的な文学の部屋を構築し、それでいて、単なる私的部屋で終わらずに、他者との交差が連鎖的に起こる開かれた場ではないか。

 この理念に、文学を書く・読む・語る・集まることそれ自体に創造的行為の真髄があるという、文学への理解がそこに宿っていると感じる。

16件のコメント

  • かいまさん

     いい時候になって参りました。
     カクヨムは「純文学」のカテゴリがないので、純文学に対し冷たいのかと思いきや、文学的営為の何たるかがわかってらっしゃるWEB設計になっていて、ちぐはぐな感じです。おっしゃるように「書く」「読む」「語る」の「語る」が緊要。略して「カクヨムカタル」ですか。この「語る」が「書く側として語る」や「読む側として語る」にとどまらない。立場を自由に交替し、ないまぜにし、脱ヒエラルキ的並立あるいは水平において語れる。
    「語る」が「クリエイターとして語る」「消費者として語る」から解放されたところに、真に文学にとってふさわしい水平がひらかれます。僕もカクヨムはとても気に入っております。
    ――
     一回目の品評会、だいたい終わりまして。思ったんですけど。
     言葉をたとえばピアノの鍵盤に見立ててみた時、まったく同じ強さ、まったく同じテンポで、鍵盤を叩いてゆくと、たしかに発音は明瞭。わかりやすい。新品同様の・山出しの・加工されていない言葉をそのまま作者-読者間で交換してゆくときの、交換のすばやさ・語弊のない確からしさを軸に、ストーリーを展開してゆくのは、一般文芸の領分であると思いました。
     文学は、となると、鍵盤の叩き方が独特。言葉の一つ一つに微妙なちがいをこめ、隣り合うもの同士の非‐親和性によって読者に違和感をもたせる。従来言語の慣習(慣性)からの逸脱をつづけて、読者を奇妙な感覚におとしいれる。
     こう、高みから概括するのは簡単ですが、いざ作品を読みはじめると、ばっさりそうとは言い切れませんでした。ストーリーが目をくらませます。けれども言語の従来的用法からの逸脱がない。するすると横に辷ってゆく。一般文芸といえども、純文学的要素はまざりうるものなので、最後まで読まざるを得ない。
     結果的に何か、自分は純文学を読んでいるのか、一般文芸を読んでいるのか、わからなくなって頭が混乱しました。どう考えても、言葉が通貨的に交換されるだけの・表面がつるつるした取っ掛かりのない文章は、「一般文芸だろ」と毒づきながら通読しましたけど、何なんですかね、ばっさり「ちがう」とは言い切れないで、最後まで読まざるを得ませんでした。
     純文学と一般文芸の境界は引きづらいっすね。おかげで少し疲れました。
     次回、もう少し工夫します。
  • かいまさや様
    近況ノートにコメントを残させて頂くのは初めてでございます。覚えていらしたらとても嬉しいです。
    全てのユーザーが自主的に、読む・書く・評するの立場を超えた並立性が得られるなら、素晴らしいと感じました。
    価値観の違いによりユーザー同士が孤立するよりは、読む・書く・評するのそれぞれの価値観が有機的に繋がるなら、今よりもっとウェブ上の文学が重視されるのでは、とも感じました。
    毎度、深い考察と文学への愛敬に、はっとします。それでは、長文を失礼致しました。
  • 朝尾羯羊様へ
     私情にかまけて返事が遅くなり、すみませんでした。

     成程、一般文芸は明瞭に伝えることが重要であって譜面を安易にアレンジしては、聴き心地も普段と異なって違和感として残ってしまう、みたいなものでしょうか。譜を置き、それを正しく弾くことが求められるのでしょう。主旋律それ自体に意味を込めて、決まった奏法にのせて弾く。

     一方で文学はと云うと、正確性よりもサウンドそれ自体に深く注目して、楽器や音響などを些細に調整することが重要なのでしょうか。その場合、規定の奏法や音感よりも、それ自体を新たに構築することの方が目的なのでしょうね。

     私考でありますが、双方目的が異なっているのだから、楽しみ方も一律では成り立たないと感じております。例えば、一般文芸のストーリテリングを出発点として、より本質的な日常に根ざした問題を発見したり。

     人の楽しみ方は千差万別であれど、夫々の目的に合わせた嗜み方を使い分けられたら、生きる上では便利に感じます。…と言えど、私は非常に不便な生き方を自ずから選んでいますが。
  • 桐生甘太郎様
     日頃より私の自主企画へご参加くださって、またこうして御返事を頂けて幸い至極の想いです。

     今や誰しもが文壇において立場を持てる以上、主義の多様化とは聞こえは良くとも、いずれ文壇の分断が起こり、孤立状態もありえるでしょう。

     私考、誰しもが相互の並立した立場を理解しようと試み、過度にその立場へは干渉しないことが大切に感じております。自らの立場から、他の立場を評してゆかねば、その立場は孤立してゆくのみでありましょう。批判するのであっても、自らの立場を明かし、その意味を明解にせねば、単なる卑下と受けとられてしまうでしょうから…。

     桐生甘太郎様は如何お考えなのでしょうか、機会があれば是非お聞かせ下さい。
  • かいまさん

    ご返信あざます。
    そーなんですよね。一般文芸のストーリテリング(言葉を加工しない基本奏法)をもとに、生活を問い直すことは十分可能ですから。

    にしても、自主企画の特徴を三点に要約されたのはすばらしいです。思わず印刷してしまいました。"文学的主体性"というのが言い得て妙で、三つ目の"語る"がなければ文学ではない。金銭の授受で終るなら、市場経済における生産行動・消費行動の枠組みからはみ出せない。

    ニュースメディアは凋落して、世論はむしろSNSを中心に形成されるようになったこんな(ある意味健全化された)時代に、桐生さんのおっしゃることは重要な意味を帯びてきますね。

    《今よりもっとウェブ上の文学が重視される》

    なぜいまだに文学の大勢はWEB上に移って来ないんでしょうか。
    僕も桐生さんのお考えをぜひ伺いたいです。
  • 朝尾羯洋様へ

     この様な御返事を頂けて、大変幸いに思います。私の身勝手な意見に共感して、印刷して下さった事、非常に光栄にも思います。私は、強く朝尾様を尊敬しております故です。

     さて、朝尾様は文学的主体性に共感して下さいましたが、朝尾様自身は純文学的な孤高を掲げていたと覚えがあります。この二点をどのように両立する意向であるのか、非常に興味があります。

     また御意向が御座いましたら、文学の移民は未だにデジタル•アナログのフォーマットにて彷徨い、WEBの領域に定住を果たせないのか、ご意見がありましたら、お伺いできたら幸いに思います。

     泥酔状態から、大変失礼致しました。
  • かいまさん

    ”創作のための言語”と”語るための言語”とがありますが、みなさん往々にして"語るための言語"をためらい、代わりに無言で★を融通し合う。カクヨムはよきプラットフォーマーでありながら、★(金銭)の授受という便宜を作家に与えたことで、"語るための言語"の発達は遅れてしまっている感があります。

    "語るための言語"をたずさえて、★がもらえないという孤独をおそれず、自分の信ずる文学を言語化して他者に伝え続けること――これを僕はひとまず"名誉ある孤独"と銘打ちました。

    文学の徒の、WEB上への移民は、"語るための言語"をみなさんが自覚的に発達させて語り明かすことを厭わなくなれば、徐々に達成されるだろうと、僕は今のところ考えます。
    ――
    僕ばかり喋ってしまいました……以上です。
  • 朝尾羯羊様

     私の稚拙な質問にお答え頂き、有難う御座います。とても本質的なご意見を頂けて、大変幸いに思います。

     ★機能のために、語る文化が一部にわたって廃れる可能性があると…。非常に的を得たご指摘かと思います。

     私の立場として、「読専」も強く認めております。例えば、読解力や文章力がなくとも、各々の立場として、単一な評価であっても★をして評価できる機能は便利かと感じます。

     「書く読む語る」の役割は、夫々が自由無条件的に選択する可能性があるので、それが可能であるプラットフォームがまたWEBの良さであると思っております。

     これではリベラル的思考かと捉えられるでしょうか…。此処もまた、私的にも魅力ある語る人々が集って頂ける望ましい広場であると捉えております。私自身も同じく、孤独を恐れずに創作し、しかしまた孤高を避けたこの様な活動を進めています…。それは自身に酔うよりも、朝尾様あなたの評に酔いたいだけであるのやも知れません…。

     大変失礼な主張、失礼いたしました…。
  • かいまさん

     突然ですが、AIが小説における人間の創造性のお株をすべて奪ってゆく可能性がある、という議論があるのをご存知ですか? 僕はSNSは覗かないんで、詳しくは知りませんが、カクヨムにおいて同様の考えを述べているエッセイがあり、彼によると、「創造性や独創性が個人に帰属していると考えられたのは、AI登場以前までの神話にすぎなかった」とのことです。僕はこれを読んで驚きました。

     彼の説は「人間の心はすべて予めAIによって記述されうる」と言っているに等しく、ひいては「すべての心の状態は、人間が経験する以前からAIによって記述可能であるから、もはや人間が生きて何かを体験することに意味はない」と言っているに等しいです。

     実に馬鹿々々しい・早とちりな・悲観的なマウンティングだと思って、溜息が出づっぱりでした。もし彼の言う通りなら、心理カウンセラー、精神分析医、犯罪心理学者はお役御免となり、うつ病は減り、他人の心は当人の口づてに知る前からAIによってあばかれ、人間同士のコミュニケーションはAIを介せば不要となりましょう。

     執筆の根本的な動機は、心を描写することにあるのではないでしょうか。精神的な袋小路に迷い込んだ人が、そこから復帰しようとして、自分の心をたしかめるために日記のようなものをつけはじめる原始的な衝動を、誰か、妨げられる人がいるのでしょうか。彼の言説によれば、そんなことをせずとも、AIが当人に代って当人の心の状態を記述してくれることになります。しかしAIに心の経験が与えられていない以上、当人の心を先んじて描破できるはずはないと思います。

     結局、人間の心が謎であるかぎり、執筆の衝動が止揚されることはない……と僕は考えますが、かいまさんはいかがお考えですか?

    ――

     とはいえ、一般文芸と文学がまじり合いつつあるこんな時代では、上記の悲観的マウンティングはさもありなんです。AIによる代筆が盛んになるにつれて、生存の特異性・真摯さ・実存的感覚の記述はどんどん廃れてゆき、代わって当たり前のように、実存的状況を骨抜きにされた・立体感も切迫感も撥無されてしまった・動く記号としての人間しか、創作上にはあらわれなくなるかも知れません。非常に危惧すべきことです。

     僕は文学は、生きていることの主張・実存的に複雑きわまる状況の記述であると思いますし、サブカルチャ(副次文化・大衆文化の傍流)としてこうした精彩のある実存的感覚・状況を記述する文化やテクニックが廃れないで、ほそぼそと継承されてゆくことは、たいへん大事なことだと考えます。文学をやっているのが断じて商業作家だけであってはならない理由の一つに、そうした心を記述する技術を必要としている人は、現場にこそいることが挙げられます。

     文学が廃れてゆくということは、生きているというそのことが、薄っぺらくなることでしょう。カクヨムでもそうした文学の荒廃と、一般文芸による侵蝕が確認されています。我々の活動は、これに抗する上で――生存そのものが荒廃することに抗する上で、大げさでなしに、たいへん意味のあることだと思った今日この頃であります。
  • 朝尾様
    お返事が遅れて、すみません。

     長くなりますが、ここに私なりのAIに関しての3つの指標を述べたいと思います。お時間のある時に、是非ご閲読ください。

    ・能力的エンハンスメント
     AIは創造の代理者ではなく、創造行為の補助装置としてのみ機能します。確かに、AIはそれらしく誰からも理解されやすい文章を、ヒトと比べ物にならぬほどに早く正確に出力します。しかし、それらは言語処理によって最適化された、極めて高度な模写の継ぎ接ぎでしかないのです。AIの役割は、ヒトの潜在能力の底上げにしかならず、よって、他と同じような作品を量産する者は、淘汰される可能性があると考えます。全く新たな文学であれば、AIに創造の余地はないのです。

    ・奥にいる作り手の存在
     AIはヒトが入力しなければ、何も出力できません。よって、多くの読者はAIによって創作された作品であっても、無意識にもその奥にいる作り手の存在を意識するはずです。先述の通り、AIはエンハンスでしかあり得ませんから、ヒトが原案を出さねば学習記録を呼び起こす精巧な贋作にしかなり得ません。AIがあっても、属人性が滑落していては空虚な構造のみが残るだけであって、ヒトは、それでは感心しないと言えるかと。

    ・論理性の崩壊
     私は、心の写実は一度も実現できなことはない、と考えております。例えば、アンニュイでメランコリックな優越感すら、「うつ病」と決めつけられては属性化され、これ以降の表現を止めてしまいます。人々を一般化して平面に捉えると、文学の創作活動は意味をなさなくなるでしょう。言語化されない気分や意識を、どうにか手探りでそれらしく当てはめてみる途方もない作業が失われてしまうからです。
     話がややそれましたが、我々の生活について正しく論理化できた確証は何処にもなく、雲を掴むような感覚を噛みしめることこそが、我々の文学の尊厳のひとつではないでしょうか。我々がもつココロとやらを、自身でも分からないと云うのに、心をもたないAIに如何にして写せましょうか。

     ここまで長々と失礼致しました。私は世界の不確実性にこそ、文学の文学たる意義があると強く感じている次第です。
  • かいまさん

     お返事拝読しました。
     僕のだしぬけな問いかけに緊急性はありませんので(笑)一週間でも一ヶ月でも待ちますよ。もちろん真摯に答えて下さることを期して投げかけているので、僕にとってすら、性もない問いかけをして、かいまさんのお時間を奪うようなことはしません。切羽詰まったことしかお訊きしませんので。
     お考えに接しまして、正常な認識の前提に引き戻された感じがします。AIは使い手の命令がなければ何も出力しない、という前提。AIをまったく使ったことがないので、この認識の前提を欠いていたところから、悲観的な流言蜚語にあてられて、泡を喰ったみたいです。いやぁ、たいへんお恥ずかしい…
    ――
     悲観論を書いていた彼はこうも書いていました。
    「AIに心がないことを誰も証明できない」
     ないことは証明できませんので、だからどうした?という感じですが、これを大真面目に書いてるんだから、たちが悪いです。「神が存在しないことを誰も証明できない」と大真面目に吹聴している当人が、では、実際に神の存在を信じているものと受け取る人はいないでしょう。その問い自体が不信心の証しであります。もはやそれらは信仰の領域であり、「神が存在すると信ずるか否か」という立論の仕方しかありえないのと同様に、「AIに心がそなわっていると信ずるか否か」という形式で語る以外のいかなる立論もありえないと思います。
     その存在を信じてもいないものについて、「しかし存在しないとは言えない」と反問することが、自分の敬虔さの証しになるとでも思ってるんでしょうかね…おっとこれは愚痴です。
    ――
    《アンニュイでメランコリックな優越感》という文言に、僕はかいまさんのすさまじい皮肉を感じました。うつ病の人が《アンニュイでメランコリックな優越感》に擬態することはないし、またそんな余裕もないでしょうけれど、《アンニュイでメランコリックな優越感》をもっている人が、その余裕を持て余してうつ病に擬態する場合はあるでしょうね。ものを書く人のなかには、けっこうそういう《謎めいた優越感》を持て余している方が多い印象です。

    追伸
     品評会に例の「金魚」さんが迷い込んでおるのですが…参加のご意志がおありになるってことでしょうか。その場合は、できれば別の作品でエントリー願えないでしょうか…すでに書評も添えて顕彰しておりますので、これで今さら★2とかに下方修正することもできず、僕はがんじがらめにされてしまいます。
     前回オリンピック金メダリストのフィギュアスケーターが、前回のフリーの演技の録画で、今年のオリンピックに参戦するようなものです。
  • 朝尾羯羊様

     御返事、ありがとうございます。貴方様の企画とはつゆ知らず、何の気もなく参加してしまっておりました…。失礼をいたしました、また他作品で参加させて頂きます。

     悪魔の証明、というやつでしょうか。神という形而上的な存在に対しては、宗教観や哲学的な問いとして有用でしょうが、今度の相手はAIです。悪魔でも神でもなく、人工知能でありますから、ヒトが一から創造した存在です。つまりこの場合、我々がAIの神と云っても差し支えない事実がありますから、不可知な領域もなく、端的には0か1かの数乱列でしかありません。

     ヒトの心については、その身体をいくら解剖しても見つからないけれど、AIを解剖すれば01の宇宙です。ヒト個人が把握しきれない規模ではあれど、人類が信仰する対象としては無構造で空虚な存在に感じます。

     私見による寡聞が含まれていましたら、ご指摘をお願い致します…。


     文学者が謎めいた優越感を覚える傾向にあるとは、私も不思議なところです。これに関しては、文学に関わらず広く人々が持つ感情であるやも知れませんが、中でも文学者の存在感は強烈に感じます。

     朝尾様にお考えがあれば、またお聞かせ頂けましたら、至極幸いに思います。
  • 追伸

     失礼ながら、自主企画についての近況ノートでのやりとりを覗かせて頂きました。

     確かに、私の文学的意義には個人主義が蔓延して、「歴史にかんがみて文学の共通項とは何か」という理念性が欠けておりました。自分のみに縋る態度は改めねばなりませんね。

     また改めて、再考してみたいと思います。
  • かいまさん

    「悪魔の証明」といえばまさにそうなのですが…
     僕の言い方がかなり拙かったので、ここであらためてカントを引いてみます。神‐存在という述語の紐づけ、信仰の領域、という言葉はカントにならって撤回します。信仰より以前に、これは哲学の領域でした。
    「純粋理性批判」の主な標的は、理性の領域にある概念(イデー)を、感性および悟性の領域にまで引き下ろすことの誤りにありました。イデーを、時間と空間という二つの純粋直観、および純粋悟性概念(カテゴリー)のなかに透過させて、経験としてイデーを認識し直そうとすることの誤りを指摘しております。
     カント哲学においては、心・自由・神は等価であり、いずれも経験としては認識されえず、ただ思惟されうるのみであるイデーとして与えられています。ですので先の「AIに心がないことを誰も証明できない」という立論のそもそもの誤りは、心というイデーに、ない(存在しない)という経験的述語を結びつけている点にあると思われます。これは心というイデーを、知らず知らずのうちに、経験の領域において確認したいという”理性の僭越”を犯していることのしるしであります。心というイデーに述語づけられるのは、やはり、思惟される(信ぜられる)以外にないだろう、ということを僕は言いたいのでした。
    ――
     かいまさんの文学に対する姿勢が”個人主義的”だとは僕は思いません。なぜかというと、かいまさんはご自身が書いた物以前に頭上に戴いている物があり、その頭上に戴いている物の方がまず何よりも文学であると認識しているように見受けられるからです。
     ほんとうの個人主義は、頭上に何ものをも戴かずに、自分が書いた物がまず何よりも文学であると揚言してしまう、或る種僭越な姿勢です。
     こうした個人主義文学は、最初はその人のことを守ってくれます。どんなに勉強していなかろうと、自分が書いた物を文学であると揚言する自由があり、周囲がその自由を認めてくれます。しかしながら、そんな行き過ぎた個人主義は、たとえば野球の試合において、打者がフェアグラウンド内に球を転がしてから、三塁に向かって走ることを誰もが容認しなければならないようなもので――試合がまるで成立せず、勝手気ままにふるまう人をやがて誰も相手にしなくなるようなもので、文学として成立しません。頭上に何ものをも戴かない人が書いた物を、人は文学として受け取らないでしょう。
     読んでくれる人がいなくなると、その人は場を去るか、変節して読まれるように軟派な書き方をしはじめるでしょう。個人主義文学が行きつく先は、断筆か、一般文芸への転落かのいずれかです。
     先験的に文学を戴いている書き手が、カクヨムに永く居たためしがありません。読み手がつかずに、一年あまりで去ってしまうケースが多いです。僕はかいまさんもそうなってしまう可能性を危惧しており、であればこそ、”先験的に文学を戴いているという共通認識”をなるべく広げ、そういう認識をもっている人をつかまえて、一所に集めてゆこうと考え、件の品評会を催している次第です。
     カクヨムが文学をやるのに相応しい場となるには、“先験的に文学を戴いている”という意識をもった人たちの輪が欠かせません。われわれが文学という旗印のもとに集うには、個人主義的に散開する前に、そもそもその文学とはどんなかが明示されなければなりません。かいまさんにもぜひ、文学の淵源を問うて、発信していただきたいです。
     でないとたぶん、三年後、五年後、この場で意欲的に文学に取り組むことはできないと諦めて、われわれは物別れになってしまうと思います。
  • 朝尾羯羊様

     御返事、ありがとうございます。筆力のみならず、読解にも難のある素性であることが明らかになってしまい、恥ずかしく思います。

     カント哲学に則して説明されますと、より良く朝尾様の主張について理解が進みました。「AI」と「心」の存在自体の齟齬が、この二つが二律的に同時にあることを認めないと云う構造的な問題であったのですね。悪魔の証明自体にも同様のことが言えるやも知れませんが、場合、この例えは相応しくなかったですね…。

     私の主張と当てはめれば、「AI」は0or1の構造であるが、「心」はこれまで文学や哲学の場でも議論・表現され続けてきたが、単なる議論・表現されうる対象として信仰されているに過ぎない、と理解されますかね。

     また「文学」と「作品」も同じような関係にあると言えますかね。「文学」については、我々から干渉することではなく、戴いた賜として信じる対象であり続ける。このことを前提にして、「作品」を書くことそれ自体が「文学」の本質たる性格を保存する活動となるのでしょうか。
  • かいまさん

     実にすぐれた切り返しです。お話をしていますと、自分の考えが整理されてゆきます。いつもありがとうございます。
     「作品」が「文学というイデーそのもの」だと思惟することは、言いうべくんば、"理性の僭越"だということに帰結します。イデーを経験的に形あるものとして現象界にもたらしたいという理性の潜在的な欲求が、「作品」をわれわれに書かせるのですが、カントにならって肝に銘ずべきは、依然として「文学というイデーそのもの」は別のところに――われわれが思惟し且つ信ずるところにしか存していないことであり、特に現代を生きるわれわれは、「文学というイデー」を信ずる前に、とかく「作品」を主張しすぎます。
     「文学というイデー」を信じていない者に――「文学とは何か」が語れない者にどうして文学作品が書けますか?
     「文学の死」ということが巷間に言われております。僕はこれについて審らかには知りませんけれど、文学が死ぬとすれば、それはわれわれ(我と汝――作者と読者)のあいだから「文学というイデー」を信ずるという先験的条件が欠けた時でしょう。だからこそ、いたずらに「作品(=文学というイデーの具体化という不可能)」を主張せずに、まず「文学というイデー」を信ずる素朴な信仰にわれわれが今からでも立ち帰りさえすれば、文学は死ぬどころか、立ちどころに蘇るだろうと僕は考えるわけです。
     それゆえに「文学というイデーそのもの」を記述すること、"われわれ全体にとっての文学とは何か"を記述したがいに確認し合うことが、われわれの間から文学を絶やさないために必要であると考えます。
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