日本文学史大観
「文と私、または貴と私」
日本文学史は、「文」「私」「貴(または公)」という三つの素が引き合い押し合い、あるいは剥離をしてきた軌跡である。この史観は、近代という熱病と、今の日本文学の正体を浮き上がらせるであろうと望んだ。
本論にては、およそ第二、三点の主張を述べたかった旨であり、そこに無理やりにでもダイナミズムをはめ込んでやってみただけです。大胆でもありますが、諸刃な試みでもありますことを自覚しております。また、端書き程度のものなので、今度にでも清書を試みてみます。
・「文」とは
ここでは大まかに「文学」と述べる。文字による写実(史や記録)とは異なり「異化」の精神をとり込んだ表現とその連続についてを「純文学」として、その意図をもつ文章を広義的な「文学」として捉える。無論、万葉集や雑歌、川柳なども文化的な異化に当たるため、文学の枠組みにも収まるが、貴族的な「公」の性格が強かったために本論にては省いた。
1. 文と私と云うふたつ(公的な外界を写しとる)
—文と私の接近の微動
・紫式部
近世以前、「文」とはおおよそ漢文(一部、万葉仮名などもあるが)を指し、貴族に閉じられたものであり、もっぱら政治や宗教といった「公」を記述する目的のものであった。平民の猥雑なリアリティは「ウタ」に留まり、「文」と「私」は確かに分離されていた。
「源氏物語」は、手法としてかな文字を用いて「私」へ接近している。彼女らが綴ったのは、公なイデオロギーについてではなく、もっぱら私的な恋情や情緒についてであって、ここにも私的な「異化」という意味合いで文学が発芽していると捉えた。
※「かな文字」の逸な点
内裏で書かれた「かな文字」の髄は、当時、貴でも公でもない身分である女性の個人を主体として操られた点であると捉えている。ここに、貴族による通礼や趣味を逸して、文学が「私」へと一歩近づいたとして碁をおいた。
・芭蕉
平民の猥雑で無常な口承を、手法として文へと習合させている(私への接近)。
貴族の和歌、連歌と平民の俳諧という「貴と私」の二項がしばらく連立することとなる。
2. 文と私の一致(公的な内面を写しとる)
—文と私の一致による動揺
漢文(公)とウタ(私)として離れてあったものが、近代にようやく一致し始め、それが日本文学の根本的な歪として在ることとなり、過度な白熱を生みつづけた。その公私を接合したのは内発的な精神ではなく、西洋主義の流入という外の手であったためである。
・二葉亭、漱石、芥川
二葉亭四迷の文語一致は直意に、「貴と私」の解体を意味していた。しかし、西洋の熱風は未熟な日本の地を吹きさらし、当時の日本人もまた、その熱病に倣った。
啓蒙に毒され、自らの古典と新たな個人主義の狭間で葛藤する私たる芥川は死を避けられなかった。それはまさに、背のびをして二階へかけ上がろうとした童(わっぱ)が、着物の褄下に足を奪われて転げおちた様である。
これまでの文学に倣おうと平民らは古典を手にとるが、その姿は端に「文はまだ貴に在り」と意味している。古典とはこれまで貴族の私物であって、それらが一挙に「私」に習合されようとすると、そこに拒絶反応を止まないのである。
彼らは倒すべき外敵(身分や戦争)を失い、生の大義は公的なる私(国家や道徳、文化という大きな目)の内面へ進んでゆくこととなる。
・谷崎、太宰、三島
近代化が進むと、個人主義における大義はことごとく破壊されてゆく。文学においてもまた、その目的を大義の再定のためではなく、大義の破壊そのものに美を見出した。
文の対象が貴族的な雅や幽美から、私的な耽美や堕落へうつり、私による貴の解体、私による文の開放をめざした。これにより、貴族から文がはがされ、私へ私物化されてゆくのである。
しかし、公に生の大義を失い、私的なる私の内に指すことの副作用として三島は、大義を捏造しようとした徒花として、燃ゆる風と共に散っていったのだ。
3. 私からの剥離(私的な外界を写しとる)
—文と私の一致による試み
ポストモダンに至ると、文私の習合と貴の解体への熱病は急激に鎮静し、冷え込みはじめる。
・安部公房、村上春樹
文語一致と個人主義が全ての私までに浸透し、かつて文豪らが身を賭してきた内面の葛藤すらも公の私物となり(コモディティ化)、全ての私が消費できるありふれたものとなる。
絶対的な「貴」も、熱狂的な「私」も存在しない焼け跡において、作家は近代以前の「写実」に戻ることも、近代の自己的な「露駁」に頼ることもできない。彼らは公よりも、孤絶した私の目から外界を捉え直すための新たな試みへと移るのである。