• 現代ファンタジー

〈知性とは自分自身を時間の流れのなかに置いて、自分自身の変化を勘定に入れることである〉

内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』,2009年,株式会社講談社
(本ノートのタイトルは本文より引用)
※今回はかなり手荒なまとめ方になっております。主観が混じっていることをご了承ください。
※原著では、学びだけでなく労働にも言及し、より広い視点で説得的に論じている。本ノートでは文字数の都合上、学びに限定して記録した。

 近年、問題になってきている「学ばない若者」について、著者は単に「個人やる気の問題」等表層的なものではなく、「構造的問題」を指摘する。すなわち、若者は学ばないよう努めている、あるいは強制されているというのである。
 この「構造的問題」のヒントが、しばしば教員を絶句させる「これを学ぶことに何の意味があるのか」という問いにある。
 今日聞きなれたこの問いは、世の中には子ども・学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが無限に存在するにもかかわらず、彼ら自身の価値の正しさを自明として前提する論理的転倒の結果として出現する。
 そもそも教育は、教育から受益する人間は自分がどのように利益を受けているかを教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないという点において逆説的である。
 また、起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるか知らず、それが何の価値や意味や有用性を持つものであるかも言えないところから始まるものなのである。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという事実こそが学びを動機づけている。
 このように、学びは時間的現象(無時間的・瞬間的ではない)であるにもかかわらず、経済的合理性が浸透したことによる〈消費主体〉としての子どもたちは、自らの幼い価値基準をもとに、無時間的な等価交換を前提としたサービスとして教育を見る。
 〈労働主体〉としてよりも先に〈消費主体〉として立ち現れることを余儀なくされた子どもたちは、市場原理に合致するように、幼児期において「自己形成(合理的判断が可能という前提)」を完了し、ついにはその「子どもにも分かる価値」をもとに「自分にとっての閉鎖的な有用性」で判断するようになるのだ(あたかも消費のように)。
 学びとは、自分自身の価値判断を「かっこに入れ」、未知の言葉を「なんだかよく分からない」ままに受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望することによる。
 学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構成していく生成的行為であり、学び終えた時点で初めて自分が何を学んだのか理解するレベルに到達する。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する