「碧天のアドヴァーサ」
ヨルムンガンド
――――空は蒼かった。いくつになってもその景色を忘れられるはずもなかった。雲の下に閉ざされた大いなる地上へ思いを馳せながら、いつまでもここに立っていたかった。
◆
ルク=シュゼンベルクの師匠は困った人だった。
「おい、ルク。準備は大丈夫か。替えの服と食べものは? あと渡したペンダントは持ったか?」
「そんなに心配しないでください、師匠。僕はもう子供じゃないんだから」
大きめのリュックの中身を見せながら、ルクは言う。昨晩は何度も確認作業をしたおかげで眠れなかったぐらいだ。翼が印刻された臙脂色のペンダントだってしっかり首から下げている。
「お前が何歳だろうと私の子供であることには変わりないぞ。最後ぐらい、心配させてくれよ」
「もう……」
十六歳の成人となった者は一度旅に出るというしきたりがこの空中国家アルカナにはあった。けれども、子離れならぬ弟子離れできないのがルクの師匠。師匠は肩まで伸ばした茶髪が特徴の年増の女性で黙っていれば美人なのだが、過保護なところがあり非常に残念であるという印象が強かった。いうなれば弟子バカといったところか。ルクの体を嘗め回すように見て入念にチェックしている。気持ちは分からなくもないが、流石に限度があると思う。視線がくすぐったくてならない。たまらなくなってルクは周りの景色に意識を向ける。
崩れかけた城壁、苔が生い茂る無人の家々、手入れのされていない街路樹、割れた地面。そう、この国は既に死んでいるのだ。『第二次魔導対戦』の敗北で疲弊しきったアルカナは、もはや最盛期と比べて見る影もなくなったというのは師匠の言葉。天蓋だけがいつも変わらずにいたそうだ。
「そろそろいいですか?」
「いや、まだだ」
「まさかとは思いますが、僕が離れてほしくないからわざと長引かせたりとかしてないですよね。まさかね?」
「そそ、そんな訳あるか」
動揺と寂しさの入り混じった声で師匠は言う。弟子を見送る彼女の最後の悪あがきなのだろう。それを分かっていたからこそ、もうしばらくは黙っておくことにした。
それでもお別れの時間というのはやってくる。旅に出るように勧めたのはそもそも師匠なのだ。いつまでもここにいるわけにはいかない。荷物の最終確認を終えたルクたちはゆっくりと国の端に位置する広場へと向かった。
城壁を抜けるとそこには見渡す限りの青空が広がっていた。まるで旅立ちを歓迎してくれるかのように広がる絶景。下には厚い雲がかかり、地上の様子は見えない。昔は人々の憩いの場になっていたのかもしれない。中央には枯れた噴水があり、ところどころひび割れていた。苔むした石煉瓦の上を歩きながら、目的地である『アルカナのつま先』にたどり着く。小さい頃は危ないから近寄ってはいけないと言われてきた場所。成長するに連れてそこまでうるさく言われなくなり、いつしかお気に入りのスポットになっていた。
「本当にこの下に『地面』があるんですよね?」
「何回言わせるんだ。私はその地上から来たんだぞ。地上にはな、海ってものが」
「その話は耳にタコができるぐらい聞きました。ほら、師匠は時折嘘をつくから……」
ルクは若干師匠の言葉を遮るように言った。海というのは塩水で満たされた大きな池らしいがほんとにそんなものがあるのか、にわかには信じがたい。
「弟子の生死に関わるような嘘は言わんよ」
そう零す師匠の横顔はいつもよりも格好良かった。こんな顔も暫く見られなくなるんだと思うと、こっちも胸がいっぱいになってしまう。同時に師匠との思い出がフラッシュバックする。ルクにとって師匠は憧れであり先生でありライバルであり全てだった。生きていけるのかという不安より師匠が傍にいなくなってしまう不安の方がはるかに大きい。けれどこんなことが師匠にバレたら絶対馬鹿にされるので、口には出せないが。
「師匠」
「なんだ」
「行ってきます」
「ああ」
「意外とそっけないんですね」
「まあな」
師匠はこちらから顔を背けている。多分、泣いているのだろう。すすり泣くような声色だ。寂しい気持ちを悟られたくないところはお互い様のようだった。変なところまで師匠と似ていたが、こんな短いやり取りでも意思疎通ができるぐらいには仲は深かった。足をそっと踏み出す。つま先は既に宙に浮いていた。あと一歩踏み出せばもうそこは重力だけが支配する世界。青、蒼、そして碧。色んな「あお」が混ざって景色を創り出している。
「果たして、『能力』の正体は分かるんでしょうかね」
この旅は自分自身について解き明かす旅でもあるんだと、改めて自分に言い聞かせる。
「それはお前次第かな。しかし、何らかの成果は得られるはずだ。楽しんで来い」
「はい‼」
勢いをつけて思いきって跳んだ。いや、飛んだ。さあ、冒険の始まりだ。
「行ったか…………もう、二度とここに帰ってくるんじゃないぞ、ルク。アドヴァーサの真実に気づくまでは」