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三国志の書家捕捉情報

学園戦記三国志
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389
の最新話番外編その8[書画]で紹介した書家を三国志的に捕捉していこうと思う。

杜度(とたく)(生没年不明)、字を伯度。本来の名前は操だが、曹操の諱を避けて杜度と呼ばれる。後漢の三代目皇帝・章帝の時代の人。前漢の御史大夫・杜延年(とえんねん)の曾孫だという。
三国時代では、魏の名太守として名高い杜畿(とき)がこの杜延年の子孫とあるので、杜度とは同族ということになる。ただ杜度と杜畿は系図的には直接の子孫ではないようだ。
ちなみにこの学園戦記三国志では、杜畿は名前のみだが、トキの表記で第41話にソウソウのもとにやってきた人物の一人としてカクカのセリフの中に登場している。忘れていなければそのうちまた出ると思う。
この一族だと杜畿よりその孫の晋の将軍の杜預(どよ)の方が有名かもしれない。さらに杜預の子孫には漢文の授業でもならう唐の詩聖・杜甫(とほ)がいる。

崔瑗(さいえん)(78年-143年)、字は子玉。座右の銘の由来として知られる。父は崔駰(さいいん)。この崔瑗とその子崔寔(さいしょく)はともに草書の名人として有名であった。また崔寔は後漢の年中行事をまとめた『四民月令』の作者としても知られる。
崔瑗の兄・崔盤(さいばん)の子を崔烈(さいれつ)。崔烈は要職を歴任したが、霊帝が売官(霊帝は役職を金銭で売買した)を行うと、大金で最高位の司徒の役職を買い、世間から批判された。
ちなみにこの売官で、曹操の父・曹嵩も大金で太尉の役職を買った。
崔烈の官職購入は実子の崔均(鈞とも書く)からも激しく批判され、後に西河太守となった崔均は袁紹に同調し、反董卓の軍を起こすと、崔烈は董卓によって投獄された。董卓が死ぬと城門校尉に任じられたが、李傕が長安を攻めると王允らとともに殺された。
三国志的には崔烈の子で、崔均の弟の方が有名かもしれない。名は不明だが、字を州平という。諸葛孔明の若い頃の学友として知られ、演義他多くの作品に登場している。
この崔州平のその後だが、どうも兄崔均(鈞)と混同されてるようで、よくわからない。虎賁中郎将や西河太守になったという記述もあるが、兄崔均(鈞)の話だろう。(兄と同じ役職についた可能性がないわけではないが)

1件のコメント

  • 本編第54話にサイエンという人物が出てきますが、こちらのモデルは崔琰なのでここに書いている崔瑗とは別人です。(作者)
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