連載中の学園戦記三国志
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389用に調べたけど、本編に使えそうにないのでここで消化しようのコーナー!パチパチパチ
今回は呉の徐整の第二回。徐整がどういう人物だったかについては第一回を読んでほしい。
この徐整がどういう人物なのか。今回は彼の出身地である豫章から考えてみよう。三国志だと同郷同姓は同族という風に考えられている。確実というわけではないのだが、それ言い出すと話が進まないので、豫章徐氏が他に三国志にいないか探してみよう。
ちなみに豫章というのは揚州の南部にある郡の一つ。ここの太守(知事)を巡っては孔明の叔父の諸葛玄と朱儁の息子朱晧が戦ったり、劉ヨウとサク融が対立したりと色々あったが(この辺学園戦記三国志では省略しちゃったなぁ)、最終的に孫策の支配下に入り、そのまま呉の領土となった。
さて、徐氏に話を戻すが、呉で有名な徐氏というと将軍の徐盛がいるが、彼は元々孔明と同じ徐州琅邪の人(県は違う)。世の混乱から呉郡に移り住み、孫権に仕えた。
他に呉の有名な徐氏というと孫権の夫人となった徐夫人がいる。が、彼女も呉郡富春の人で豫章とは関係ない。(ちなみに学園戦記三国志の22話に登場したジョコンのモデル徐コン[王昆]は徐夫人の父)
正史呉志に立伝された徐氏はこのくらいなのだが、では豫章徐氏はいないのかと探してみたらいた。
顧卲伝(呉の丞相顧雍の長子)にいう、彼が27歳の時、豫章太守となり、その地の先賢である|徐孺子《じょじゅし》の墓にもうで、その子孫に手厚い保護を与えた、とある。
徐孺子とは後漢書列伝四十三に載っている|徐穉《じょち》(字は孺子。97~168)のこと。彼は郷里で農耕生活を送り、官職の誘いを断り、陳蕃や郭林宗と交流があり、名士から尊敬されていた。
顧卲が豫章太守に就任したのは建安十五年(210年)のこと。
この時保護を受けた人物かその人物の子孫が徐整である可能性が高い。ちなみに徐穉は豫章郡南昌の人である。
もう一人豫章徐氏がいた。
潘濬伝の注にいう、中郎将の豫章の徐宗は、評判の高い人物で、京師で孔融と交流したりもした。しかし、彼は手下を放任し、手下はたびたび法を犯したので、潘濬は徐宗を斬刑に処した、と。
また潘濬伝には、異民族が反乱を起こし、孫権は潘濬に仮節を授け、これを討伐させた。潘濬は軍法を犯すものは容赦なく処分した、と。
徐宗の処分もその中の一人なのだろう。この討伐は呉の黄龍三年(231)から嘉禾三年(234)の間の出来事である。
ということは徐宗は210年の豫章太守顧卲に取り立てられた人物であろうか。
一方で徐宗は孔融とも交遊を持っている。孔融は青州刺史であったが、袁紹の息子袁譚に追い出され(199年頃?)、許都の曹操のもとに逃れたが、208年に処刑されている。徐宗も徐穉の一族であるとするならば、顧卲が保護する以前より、許都で名士と交流を結ぶなど色々と活動していたようである。ちなみに先祖の徐穉が交流を持った郭林宗(郭泰)と孔融は共に後漢の名士李膺に評価された人物でもある。
さて、今回調べたことをまとめると、徐整は豫章郡南昌の人。徐穉の末裔で、その後、この一族はおそらく高官は出していないが、中央の名士と交流を持ち続け、210年に太守顧卲に保護され、一族の徐宗は中郎将となったが、231年以降に処刑された。
では次回は徐整が就いた太常について検討してみようと思う。