連載中の学園戦記三国志
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389用に調べたけど、本編に使えそうにないのでここで消化しようのコーナー!パチパチパチ
今回は呉の徐整の第三回。徐整がどういう人物だったかについては第一回を、徐氏の一族については第二回を読んでほしい。
さて、今回は呉の徐整の話最終回だ。いい加減まとめよう。
今回は彼が就任した太常という役職について。
太常というのは最高位である三公の次に位置する九卿の一つ。つまり大臣だね。とっても偉いよ。役割としては、礼儀・祭祀及び皇帝の行う行事を司る。また博士の能力試験を担当するそうだ。
さて、徐整は呉でこの太常に就いていたというが、具体的にいつ頃の話なのか。呉の太常の系譜を見ていこうと思う。
呉の最初の太常は顧雍であった。孫権は221年に呉王となると顧雍を大理・奉常とし、225年に奉常を太常と改称し、顧雍を孫卲の後任として丞相とした(正史呉主伝及び顧雍伝)。太常の後任には尚書令の陳化が任命された(呉主伝)。
また225年、程秉を守太常として太子孫登の妃となる周瑜の娘を迎えにやらしたという(程秉伝)。“守”と付くのは代理である。程秉は優れた学者で、太子孫登の教育係であったから、代わりに派遣したのだろう。
続いて229年、孫権が皇帝に即位すると、潘濬は少府に任じられ、やがて太常に昇進した(潘濬伝)。潘濬の太常就任が何年かはっきりしないが、遅くても231年には就任していたようだ(呉主伝)。潘濬がいつまで太常に就いていたかはっきりしないが、どうも239年に死去するギリギリまで太常だったようで、歩隲の呂壱弾劾の上表文に太常潘濬が登場する。またこの中で239年の正月27日の地震に触れているので、それ以降に出された文書と思われる(歩隲伝)。
また233年、孫権は公孫淵を燕王に封じるに及び守太常の張弥を派遣して璽綬を授けている(呉主伝註江表伝)。これは璽綬を渡すのは本来太常の役目だが、潘濬が遠く公孫淵のところまで派遣するわけにもいかなかったので、代わりのものに太常の役目を与えて派遣したのだろう。
続いて顧譚(顧雍孫)が顧雍の死去(243年)数ヶ月後に太常に就任するが、全琮らの讒言で流罪となる(245年?)(顧譚伝)。
また244年に陸遜が守太常の傅常より丞相就任の印綬を授けられている(陸遜伝)。これは陸遜が当時荊州にいたから代理の派遣になったのだろう。(顧譚も讒言やらで忙しいし)
251年、孫権の病が篤くなり、滕胤が上京すると、そのまま留められ太常に任じられた。孫亮が即位すると滕胤は衛将軍を加官された(孫亮伝及び滕胤伝)。256年に大司馬に就任すると、後任には全尚(孫亮妻の父)が就いたが、258年に孫亮が廃位されると全尚も零陵へ移り、後に殺害された(孫亮伝及び孫亮全夫人伝)。
258年、孫休即位し、濮陽興を呼び寄せ、太常・衛将軍とする。262年、濮陽興、丞相となる(濮陽興伝)。264年に孫休が死去するが、その間の太常は不明である。
続いて孫皓が即位するが、ここから太常の記録は断片的になる。
267年12月、守丞相孟仁と太常姚信(陸遜甥)を孫和の廟に派遣する(孫和伝)。
276年秋8月、孫皓は兼司徒の薫朝と兼太常周処を派遣して封禅の儀式を行った(孫皓伝)。周処は周魴の子。兼というのは別の職に就いていて、この儀式のために一時的に太常を兼務したということだろうか。周処は後に晋に仕えたようだが、呉の時代の経歴はよくわからない。
280年に太常張キの名が出てくる。彼が呉滅亡時の太常である(孫皓伝)。
ここまでの内容をまとめると
顧雍(225)→(程秉守太常(225))陳化(225~)→潘濬(遅くとも231~239?)(張弥守太常(233))→顧譚(243~245)→(傅常守太常(244))→滕胤(251~256)→全尚(256~258)→濮陽興(258~262)→姚信(267)→(周処兼太常(276))→張キ(280)
となる。
多少空白期間もあるが、濮陽興までわりと断絶なく太常就任者の確認がとれる。
わからなくなるのは孫休の末年から孫皓の代となる。徐整が太常についた可能性が高いのはこの頃ではないか。一説に晋に仕えたというが、この頃の太常なら辻褄があう。
さて、まとめると、呉の徐整は豫章郡南昌県の人。徐穉や徐宗らの一族で、孫休末年か孫皓の代に太常に就任していた。
まあ、そんな可能性があるんじゃないかという話なので、あまり鵜呑みにはしないでください。ただ、自分の作品では徐整をこのぐらいの時代の人物として扱うので、範囲外の学園戦記三国志では登場する予定はないです。
というわけで、三回に渡ってお届けした徐整の話いかがだったでしょうか。今後もこんな人物伝を書くかも知れないのでよろしくお願いします。
そんなのいいからさっさと本編書けとかは言わないでください。