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不愉快な文言

初めての時は、世界が美しく見えたりしたものだ。いざ臨むと「ああ、美味しいものが食べたいなぁ」などと思ってみたりもする。しかし、結局は実行する気持ちの方が勝つ。
私は認めたくないが、どうやら遂行は出来ずに今まで生きている。だがどうだろう、結局は2016年の3回目以降から私の人生は常に私にとって無価値であり続けている。面白い様相を呈しても、瞬く間にそれは色褪せてしまう。虚しい。
才能がない、これは当たり前である、一口に才能と呼ばれるものはただの各々の望みが投影されるものであり、観念としてすら実態がない、しかし、観念としてあると思いこんでいる人達からすると、これが無いのならば努力をすれば良いらしい、しかし私は努力していない。何が努力なのかわからない。才能の指すところは存在しないか、存在しても私の思う才能に届くには努力が足りないので、結局私に才能はない。有り様がない。
あらゆるものが美しく見えたり、醜く見えたりする。どちらも容認したら、心がめちゃくちゃになってしまった。
よく生きる事は簡単であったが、よく生きる上で起こるありとあらゆる不条理に耐えることは簡単ではなかった。よく生きると周りが相対的によくなくなり、ひとり地獄の苦しみを受けることになる。しかも、攻め苦を受ける訳では無い。
ダンテ『神曲』で、哲学者が地獄の内部どこか辺獄にしか居れないのはじつに巧い。よく生きることで受ける苦しみと、辺獄の苦しみはほぼ同じだろう、これは普遍の真理を求めたりするもの達にとって全く大差ない、中性的な、かつ正しい地獄である。恐らく、彼らの目には何もかもがオブジェクトであるかもしれない、つまり、地獄にいるのも現実にいるのも大差ない。
このような与太話ばかりして生きてきた訳では無い、みんな生きている価値なんてものを勝手に設定して生きているがそもそも生物が生きるのに理由などない。なるほど人間は特殊だろうが、それでも生きる理由が存在する根拠にはならない。
他人の中に置かれ、生きていかなければならなくされ、もうたくさんだ。
口は立派で、価値を見出しているくせになにもしない世人にガッカリさせられるのはもううんざりだ。期待をしてはいけない、所詮は他人。かといって教えてもいけない、所詮は私見。自分は幸せに生きたいのに周りを幸せにしようとしない、互恵性など視野にすら入っていない。
みな察察としているが、我1人悶々たり。
夢の中で見たあの光景はいつまでも手に入らない光景、いくら縷言してもそれは記号、言葉の外を出られない。私は私でしかないが、他の人にとっても私は私である。
畢竟、何かを言おうとしてみたところでここに残るのは絞りカス。私は何も理解していない、私は何も言えていない。
つらいね、死にたいね
私には何も無い

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