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松平家について

変則的な動きの台風によって各地で豪雨や強風、土砂災害など厳しい情報が聞こえていますが、皆様は大丈夫だったでしょうか?
そんな中、うちの市長は小学生みたいな馬鹿丸出しの発言で上げ足を取られて・・・
この人もやっぱり市民<<<スズキなんだなってガッカリしてしまいますね。


さて、今月は1日の今日が最初の公開となりました。
正直、前回といい今回といい、1話が長いなとちょっと気にしています。
編成で前後に話を振れないかなと調整を試みたのですがちょっと難しくて。
このまま公開することになりました。
恐らく二話で通常の三話分のボリュームだと思います。

そんな月初めのお話は松平家のお話でした。

花倉の乱の最初の方で松平清康が頓死という話を書きました。
もちろん今月の話に向かっての序章として記載したのですけど、その裏で実は友人の信也が大奮闘していたという事にしました。

広忠の生年を考えると、恐らく清康が元服してすぐくらいにできた子という事になると思います。
家康の生年も広忠が元服してすぐくらいです。
ですので、もし清康が生きていたら、何気に清康と家康は普通に戦場で一緒に大暴れしていたのかもというくらいの歳の差だと思います。

そんな松平家ですが、松平家自体はどうやら賀茂氏の出自らしいです。
京都の上賀茂神社、下鴨神社のあの賀茂氏です。
今の豊田市、加茂郡松平町に住んでいた松平さんの家に徳阿弥という乞食僧がふらふらやってきました。
どうにもこの乞食僧、手癖が悪く、松平さんの娘さんに手を付けてしまいました。
この乞食僧が初代の親氏なんだとか。

徳川家を中傷する極左な人たちは昔からいたようなので、この話がどこまで本当かはわかりません。
ただ、少なくとも新田氏の一族の得川氏の出自というのはさすがに眉唾なんでしょうね。

どうやら松平家は応仁の乱の頃に幕府の政所執事、伊勢氏の部下になっていたらしいです。
三河には吉良氏もいるし、他にも国衆が多くいるのに松平家が三河の一大勢力になれた原因はその辺りにあるのでしょう。

この話は応仁の乱の少し後、1528年がスタートですから、ちょうど清康が本格的に三河平定に乗り出した時期となります。

その松平家も没落し、吉良家も鳴かず飛ばず。
そんな三河衆を支配下におくために今回今川家は三河に進出する事になります。


来月からは最終章に突入することになります。
ですので今の章は今月で最後となります。
何とか年内に最終話が公開できるように鋭意執筆中ですので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

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