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岡部家

六月に入り、花倉の乱はかなりヒートアップしてまいります。

花倉の乱と呼ばれる所以は最終決戦の行われた城が東駿藤枝の花倉城という所だった事からそう名付けられています。

今回出てきました岡部家の居城朝日山城はその花倉城のすぐ東の山だったりします。
新東名岡部ICを降りて少し行った場所です。

ちなみに花倉城は岡部ICから朝日山城とは反対に北に行った場所。

また話の中で少し出てきた松井家の領地だった葉梨は朝日山のすぐ西だったりします。


鎌倉時代には岡部泰綱という人が駿河の中心人物として地頭職を得ているのだそうです。
つまりその当時から岡部家は駿河国人としてはかなり有力な家だったという事になると思います。

ただ、同じ地から朝比奈氏も出ているのだそうです。
鎌倉時代前期の和田合戦で落ち延びた者たちを岡部家が匿ったんじゃないかなんて言ってる人もいるそうです。

朝比奈氏の初代は和田義盛と巴御前の子朝比奈義秀だと言われているそうです。
朝比奈義秀は和田合戦で獅子奮迅の活躍をした事で有名な武将です。
ただ、戦国時代の朝比奈家が本当にその人物の末裔かというと疑問符が付くようでして。
本当なら中々に面白い話なのですが、恐らくは同姓の有名人にあやかっただけなのでしょうね。

岡部家が有名になるのは何気に今川義忠の頃かららしいです。
京都にいた今川義忠が応仁の乱の気配を感じ領国経営に力を入れた。
当然その時には地元の有力国人の力を借りないといけない。
そこで見出された一人が岡部家であり、朝比奈家だったのでしょう。

岡部家といえば高天神城で玉砕した岡部元信が有名ではあるのですが、実はそれ以外にも有名な人がいます。

武田信玄が駿河に侵攻した大きな理由として、駿河湾と水軍が欲しかったからというのがあるそうです。
駿河湾にも水軍があったんです。

水軍というと圧倒的に有名なのは村上家の瀬戸内水軍でしょう。
後は歴史ある九鬼家の熊野水軍でしょうか。

駿河にも水軍はありまして、伊丹康直という人物が仕切っていたようです。
伊丹は伊丹空港のあの伊丹です。
出自からして、三好長慶が台頭してきた時に淡路水軍を弟の安宅信康に仕切らせたので、駿河に落ち延びたといったところでしょうか。

その伊丹氏の部下に岡部貞綱という人がいました。
駿府城が陥落した際、岡部貞綱は武田信玄に降伏し、水軍を仕切るようになったようです。

その功から土屋氏を名乗るようになります。
武田二十四将の一人土屋昌続は貞綱の養子です。
信玄は功績の大きい者に褒美として「昌」の字を拝領していたそうですので(山県昌景、香坂昌信、真田昌幸など)、昌続もかなり有能だった事がうかがえます。

この昌続は例の長篠の戦いで山県隊など共に玉砕。
土屋家は弟の昌恒が継ぎます。
この昌恒も中々の人物でして、武田終焉の地天目山で武田勝頼たちが自刃している間、織田軍に踏み込まれないように奮戦していたのだそうです。


話の中ではイメージとして岡部家を武働きに定評のある家と尚武の家のように書いていますが、こうして見てみると、あながちそのイメージも誤りではないのかなと思います。

今後もたびたび岡部家は出てくると思います。
何とか上手く活躍の機会を与えていきたいですね。

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