台田さんは昔犬を飼っていた。子供の頃に飼いたいとダダをこねてなんとか引き取った一匹だ。彼はその犬にネムと名付け、かわいがりながら生活をしていた。
しかし小学生となると交友関係というものがある。ネムの散歩をすると友人との約束に間に合わない時などは親や祖父母に任せることもあった。しかし彼はそれなりの愛情を犬に注いでいた。しかし犬と人間は同じ時間を生きることは出来ない。犬は一歳になった時点で人間で言えば二十歳に相当するという。だからかもしれない、台田さんが散歩に連れて行こうとするとそれを察知してうれしそうに鳴くのだ。彼はその声が好きだった。
そうして中学生になった時、ネムは旅立った。小学生の間ずっと元気にしていたのだからそれなりの年にもなる。天寿と言って良い程度には長生きをした。しかし人間ほど長生きをするわけではないので台田さんよりは先に逝ってしまった。
台田さんも覚悟はしていたが、やはり少しだけ泣いた。それでも中学生にもなれば人間関係がそれなりにできる。友人たちに延々と犬との思い出を愚痴るわけにも行かず、その思い出はずっと心の奥深くに封印していた。
そして中学の卒業も近づいていた頃、進路相談で少しだけ自分の実力より上の志望校を狙えないか相談した。結果は「記念受験と思っておけ」というそれなりに残酷なものだった。
しかし自分が勉強してこなかったのがその結果なので文句を付けるわけにも行かない。結局、彼は必死に勉強をした。体に悪いのは承知で徹夜だってした。それでも思うように成績が上がらず辛い思いをしていた。そんな時、彼は徹夜でまた過去問を解こうとしているところでどこかから「フルル」と音が聞こえた。その音は間違いなく幾度となく聞いたネムが散歩に出る時に喜んで出す鳴き声だった。何故かその声を聞いた途端に意識が途切れた。目が覚めると彼は布団に寝ている、自分の状況が分からず体を起こそうとしたのだがその節々が痛みを発する。
どうなってしまったのかと思っていると、そこに親がやって来て「あんた、もう起きて大丈夫なの?」と聞いてきた。窓の外を見ると真っ暗になっており、おそらく徹夜をしたのではなく、翌日の夜なのだろうと理解した。
「俺は一体どうなったの?」
そう母親に尋ねると、「あんた酷い熱を出して倒れてたんだよ、まったく心配させないでよ」と言われた。きっとネムが助けてくれたのだと直感が告げる。
「どうして俺が倒れてるのが分かったの?」
そう訊くと歯切れが悪くなったが、何度か訊くとようやく答えてくれた。
「夜中なのに二回でドタバタ走り回る音が聞こえたのよ。初めは時期が時期だからイライラしているのかと思ったんだけどね、走り回る音に交じって遠吠えが聞こえたのよ」
それで尋常ではないと部屋に来たところ、彼が床に倒れていたのでベッドに寝かせて氷枕を置いてそっとしておいたそうだ。
「ネムのやつが助けてくれたんでしょう。ただ、志望校のランクは下げました。多分ネムにいつまでも俺の面倒を見させるわけにも行きませんからね」
そうしてランクこそ落ちたものの、志望校には無事合格し、大学受験ではその経験から無理のない大学を選んだらしい。
彼は窓の外の青空を見ながら『あいつは天国にきちんと行ってくれたんですかねえ』と感慨深そうに言い、私もそれに倣ってその中堅の冥福を祈るばかりだ。