辿り着いたのは、風情溢れる温泉街だった。
街を走る夜の川に街灯が溶けて、風の冷たさを少しの間忘れさせてくれる。
表通りに出れば、浴衣姿のカップルや家族連れが割と遅い時間にも関わらずわいわいと楽しくしていた。
そんないい感じの街で、マーケッター君は女の子の浴衣姿に釘付けだった。
口数少ねぇと思ったらこれかよ。
それは9.8さんもだった。
あんたもか。
刀君は相変わらず表情を変えないが、夜の温泉街の何とも言えない慕情に満足しているようだ。
僕? ほぼ無表情なんだが?
感情のカロリー消費に速度制限かけられてる感じと言えばいいのか。
眠気がない代わりに感情の起伏がなくなってきた。
まずいかもしれない。
いやまだだ。
まだいける。
まだはもうなり、なんて知らねーよ。
そうして辿りついたのは風情のある外観の温泉だった。
ほぅ…。
面構えがすでに横綱だ。
これは期待しかない。
ここは何やら、身体を洗うところにしか屋根はなく、全て露天の温泉で、なんでも数年前か、天井が腐って落ちたらしく、なら全部露天でいいじゃないとなったらしい。
そのアントワネット感いいじゃない。
ズバッと脱ぎ、身体を清め、露天に出ると石と木と灯の楽園だった。ソロリと足をつけ、源泉付近にじゃぶじゃぶ辿り着くなり舐めてみた。
ふむ、少ししょっぱい。
よしよし。まだ大丈夫。
味覚はまだ死んでない。
違う違う。
美肌だな、これ。
おじさん嫌いじゃない。
ふぃーと肩まで浸かると、声すら出ないくらい気持ちよかった。
まるで湯に身体が溶け入るようで、あいにくの曇り空だけど、木々に湯煙が掛かっていい感じじゃないか。
なんだかんだで来て良かったな。
マーケッター君には感謝だな。
「しかし最高だな。運転ありがとうね」
「それはいいんですけど、温泉コンパニオンって実際いるんですかね」
知らねーよ。
この風情と情緒を楽しめよ。
何言ってんだ。
というかそれ僕らの上の世代じゃないか? リアルで呼んだことある人なんて知らないんだが。
さっきも洗い場でも「女子風呂あっちっすね」なんて中坊みたいなセリフ吐くし。
こいつほんまどついたろか。
いや、待て待て。
男友達で出掛けたらこんな感じだったか。これが普通か。いや普通かな? 普通ってなんだっけ。
そんなことできる地元の友達とは随分と出掛けてないし、メンバーとは仕事の話とか家庭の話とかアニメとか、そんなことばかりだったしな…
彼のおかげで若返ることを体験してるのかもしれないな。
といってもおじさんそういうのむっつりなんだよ。口に出した途端に何だか照れるんだよ。
だから妄想で楽しんでんだよ。
「刀さんは結婚してるでしょ、9.8さんは?」
「自分彼女いますよ」
「おお、どんな出会いっすか?」
なんて会話が始まった。
ぐいぐい行くな…。
いや、ここまでいろいろと動いてくれてたんだ。少しくらい乗るか。
温泉の中で恋愛トークとか、修学旅行気分だな。初恋話とかどうだろうか。黒髪ちゃんでおじさん火が着いちゃったんだが。
そう思って会話に混ざろうとしたら、9.8さんがニコニコしながら言い放った。
「レスなんですよ。二年」
「…」
9.8さんの話が、いきなり重い。
え、そっちからいくの?
この風情には初恋とかの方が良くない?よくよくない?
しかし、話は進み、どうやら9.8さんからはしたいのに彼女に叫ばれるくらいに拒否されるそうで、でも不思議と仲は悪くないんだとか。
なんだそれは。
その彼氏彼女の事情、彼女さんから聞いてみたい。
そしてそこにナニかありそうで怖い♡
違う違う。
違うんだよ。
そうなんだよ。そう言う話出てくるんだよな。この歳になると。
ここはへーそうなんだ、くらいにしておこう。下手したら火傷するし妄想が加速する。
そういうのは宿がいいし、酒が欲しいし、この豊かな湯を湛える温泉にも向いてない。
不倫旅行話ならともかく♡
違う違う。
マーケッター君の燃料になってしまうことが怖いんだって。
湯を堪能したら帰って寝るよね、という暗黙の世論をYOASOBIに変えられる可能性が高い。
しかも彼が運転だ。
寝たら最後、どこで目覚めるかわかったものではない。それは経験している。あれは山頂だった。僕の家が遠く眼下に見えていた。
何ともいえない気分で飲んだ缶コーヒーが朝日とか涙とかピザとかに沁みた23歳だった。
いや、流石にそこまではないとは思うが、彼の熱意がどこまでかわからない。
どうも僕らが怒らないと踏んでるっぽい。
しかも彼はここまで空振っている。
当然女性枯渇問題だ。
彼にとっては地球のエネルギー問題より深刻で、トリガー条項くらい頑なにやめれない思想で、メスシリンダーは溜まりに貯まっている。
メスシリンダーってそんなんじゃないか。なんだっけ。どうやら僕ものぼせてきたようだ。
普段なら2時間くらい平気なんだが…しかし、だいたいは若き情熱がハプニングを引き起こすものだ。
すでにハプニングの結果ここにいるわけだが、これ以上重ねちゃ死ぬ。
明日会場に立てない。
◆
温泉を出たあと、少しの間、夜風に吹かれながらベンチに座っていた。
浴衣な人達の姿は消え、きっと今頃宿でしっぽりしてることだろう。
……。
『──嘘なんかついて、いけない人だ』
『──これきり…ですから』
……。
いかん。ここに長く居てはいけない。どうしても温泉NTRが浮かんでしまう。街とか散策したくなっちゃう。
いい感じの細路地とか気になっちゃう。
そんでBANされちゃう。
ダメダメ。早く帰ろうよ。
だが、マーケッター君は何やら黙ってスマホをいじってた。
きっと帰りの道でも検索してるのだろう…と信じたい。
そう心配していたけど、きちんと帰り道を進んでいた。
乗るまでは必死にピンクなお店を検索していたけど、コンパニオン文化のせいか、どうやらデリしかないようだ。
宿に呼んでいいかと聞かれたからとりあえず肩パンしといた。
実は今日の宿は刀君以外、僕とマーケッター君、9.8さんで泊まるのだ。
町屋を改装したコンドミニアムみたいなとこでメンバーを二班に分けて別々のところに泊まるのだ。
そこにデリとな。
何考えてんだ。
9.8さんが満更でもない顔してんじゃねーか。
あっちも困るだろうに。
アホかと言うと、その返事がこれだった。
「実は僕、まだ飲んでないんすよ。知ってますよね? どこ行きます?」
それダメェ、これ以上いくのいやぁぁ。