『瑠璃と珈琲』、いかがでしたか?
綺麗な物語を書こうと思って、執筆に至りました。
まだ読んでいない、という方は是非。
第1話「エスビャウにて 10.5.30」▼
https://kakuyomu.jp/works/16816452218368707608/episodes/16816452218368749747 ここからは、私の勝手な解釈をしていこうと思います。
私がこれからここに記すのは、一人の読者としての解釈と思っていただいて結構です。とはいえ作者と脳は同じなので、執筆時の思考などによるバイアスがかかっていますが⋯⋯。
以下、解釈。
私が最も気を使った表現は、何と言っても“コーヒー”です。
英語では「coffee」。素敵ですよね。「o」「f」「e」が2つずつ並べば均整が取れるのに、最初の「o」が欠けてしまっている。不完全だからこその苦さと美しさ。私はコーヒーからそんなことを感じました。
漢字表記の「珈琲」にもちゃんと意味があるんですよ。江戸時代の蘭学者である宇田川榕庵が当てた字と言われているのですが、「珈」「琲」は簪とそれを繋ぐ紐を意味しているそうです。コーヒーの実を見たことがあれば分かるのですが、赤くて丸い綺麗な形をしていて、簪に喩えられるのも合点がいきます。
「コーヒー」が話に出てきたのは、6話と10話、オーデンセのカフェの中だけですね。
まず、6話では“僕”は「メニューの上から9番目のコーヒー」を頼んでいますが、「9番目」というのはアルファベットの9番目、即ち「i」を指しています。「藍」と読んで奇病そのものを表現していると取ることもできるし、「哀」と読んで死を待つだけの自分を表していると取ることもできる。ここには本当に様々な解釈があっていいと思います。
次に、10話の冷めたコーヒーについて。
“少女”が“僕”のために事前にコーヒーを淹れて待っていたとも、二人の僅かな会話の中で冷めてしまったとも捉えられます。
更に穿った見方をすると、「本当にコーヒーは冷めていたのか?」という疑問が出てきます。作中では「とっくに冷めていたのか、湯気は見えない」としか記述されてませんからね。
“僕”の病はこの時すでに深刻な状態にあり、目も水晶のような腫瘍で覆われていたかもしれません。そんな状態だったら、コーヒーも霞んで見えるし、当然湯気なんか見えるはずありません。
あるいは、彼なりの文学的表現だったとも考えられます。6話と10話を読めばわかる通り、6話では注文をした描写はあれど、コーヒーが“僕”に運ばれたことは書かれておらず、10話では注文の描写がないままコーヒーがテーブルに置かれています。6話の時点で頼んだコーヒーが10話でようやく手元にやって来る。勿論、店員である“少女”が1杯のコーヒーを2週間近くも保存しておく訳はありませんが、“僕”からすればそれだけ時間が空いてしまったという比喩表現にはなるでしょう。そういえば、“僕”がコーヒーを飲む描写は何処にもありませんね?
最初にも書きましたが、以上は全て私の「勝手な」解釈です。読者の皆様が様々な解釈ができればいいな、と思っています。(あまりに突飛すぎても困惑してしまいますが⋯⋯。)
今後とも、他作品共々、よしなに。