とある由緒正しき文学部大学で、一人の先生が言っていた言葉。決して忘れはしない。
――文学部というのは、就職活動の時などになめられることがある。でも、気にすることはない。文学部は、考えることのプロなのだから――
そのような流れで出てきた言葉である。本当にその通りだと思っている。
最近のエッセイ(「天地星空 言ノ葉ノ種」)でも書いているのだが、時々、私は国語や言葉ということについて、真面目に語ることがある。それは軽んじてならない、大切なことだと思っているからだ。
考えること、というのは、すべてに繋がるものであり、正しいことや間違っていること、一見、目に見えない違和感を見分けるために必要なものでもあるのだ。
その技を身に着けること。それが、国語・言葉を学ぶことの裏にはある。
投稿サイトの利用者には、考えることのプロがたくさんいるのではないかと思うのだが、運営はなめすぎているのではないだろうか。
優良サイトであるために、適切なことをしているように主張しておいて、やっていることはおかしい。本質的な部分については何もする気がないし、表面的な部分においても、より問題のあるワードについてはむしろ推奨している状態なのだから、そこに違和感を感じないほど、こちらもバカではない。
不愉快なので、やめる方針である。
別に続けてメリットがあるのであれば、どうしてもやめるというほどのことでもないのかもしれないけど、メリットないから。
20年以上前の作品を投稿しようとも、流行りの作風のものはいっさい書く気がないから、よほどのことがない限り、上位に浮上することはなく、なかなか読んでもらえない。
また「流行りのもの」ばかりが目立つサイトで、自分の好みのものを見つけるのは、難しくて、ストレスの方が多い。
本当にメリットがないのだ。
ただ、温かいコメントをもらったこともあるし、続けて読んでくれた人もいるし、良いなと思う作品もあった。わずかばかり稼がせてもらったところもある。だから、ひとつも良いことがなかったとは言わないけれど。
でも、もういいや。
違和感と流行りのものばかりのサイトなんて。
でも、そこで投稿してた自分に、ちょっと誇りを持っている。
「流行りのもの」は決して書かないけど、「20年以上前の作品」を違和感なく出すことができるのだ、私は。
ちょっとおせっかいも兼ねて、書いてみよう。
「流行りのもの」の人たちがどう考えて書いているかは、私にはわからないけれど、私はその作品の寿命はとても短いのではないかと思っている。
長いタイトルは、自分が読んでいる作品であっても、覚えられない。それが、10年20年と長く残ることがあるだろうか?
スマホなどの最新のデジタルパーツが、重要アイテムとして出てくる作品が、何年も先まで、新鮮なみずみずしさをもって読まれることがあるだろうか?
早ければ2,3年のうちに時代遅れの古臭いものとして扱われることになると思う。
言葉遣いもそう。あっという間に死語になる言葉かどうか、それとも使われ続ける言葉となるかどうか、よく検討した方がいい。
今読んでもらえれば、それでいい。今やりたいことができれば、それでいい。
そのような考えなら、別にかまわないだろうし、大きなお世話だと思うのだけど、もし、時が経っても残るもの、読めるものを目指しているなら、気を付けた方がいいと思う。