潮騒に似た音が鼓膜を震わせたのち、神域とは異なる緑の青臭い香りが鼻腔を刺激した。その瞬間、美澪の身体は浮遊感を失い、空中からゆっくりと草地に着地した。
「うぅ……っ」
乗り物酔いに似ためまいに襲われ、膝から崩折れた美澪は、側頭部を押さえながら瞳を開けて驚愕する。
美澪の視界に映り込んできたのは、青々とした木々と、一様に|叩頭《こうとう》した人々の姿だった。
(なに、これ)
自分の置かれている状況が理解できず、美澪は呆然《ぼうぜん》として、その場から動くことができない。
(この光景、中国の宮廷ドラマで見たことがある……)
しかし、|叩頭《こうとう》したままで身じろぎ一つもしない人たちは、|皆《みな》、白地に青色で縁取られた西洋の|司祭平服《キャソック》のようなものを身にまとっている。
(……ヨーロッパ、なのかな?)
そして、そんな彼らの前で一人だけ|跪拝《きはい》していた初老の男性が、美澪に向かって恭しくお辞儀をした。
「|神の愛し子《エフィーリア》様。お初にお目にかかります。私はここ、ブロネロー神殿の神官長を努めております」
「えふぃーりあ……しんかんちょう……」
聞き慣れない文字の羅列が耳を素通りしていく。
「はい、そうでございます。……もしや、エフィーリア様の故国には、存在しない役職なのでございましょうか?」
言って、首を傾けた神官長の顔を食い入るように見つめた。
神官長の瞳は青紫色をしており、見る角度によって青や紫にも見える不思議な色合いをしていた。
日本ではまず見ることのない、タンザナイトのような瞳の中に、恐慌をきたす寸前の美澪の姿が映っている。
――|人智《じんち》の及ばない何かが干渉している。
「……っ、」
そう瞬時に悟った美澪は、後退し、神官長から距離をとった。
「エフィーリア様……?」
「っ、嫌!」
突然|怯《おび》え出した美澪に、心配そうな顔をした神官長が手を伸ばしてきた。美澪はその手をバシッと払い除ける。
「エフィーリア様?」
美澪に拒まれると思っていなかったようで、神官長は驚いた表情を浮かべて目を丸くしている。
美澪の顔には、隠しようのない警戒心がありありと浮かんでいた。
「……お願い。あたしに近づかないで……!」
美澪は恐怖に顔を引きつらせ、ぶるぶると震える|身体《からだ》を抱きしめた。そうしてふと、ヴァルの言葉が脳裏をよぎった。
『キミを召喚したのは、人間たちだよ』
(あたし、本当に召喚されちゃったんだ……!)
そう理解した途端、美澪の頭の中は真っ白になり、戦慄く唇からカチカチと歯の鳴る音がした。
そのうち、呼吸が浅く早くなり、両手の指先の体温が失われしびれていった。美澪は、はっはっと息を吸いながら、感覚を失いつつある両腕を持ち上げ、自分の頭を抱え込んだ。
(苦しい、息ができない。あたし、死んじゃうの……?)
美澪がパニック発作を起こしている間、誰かが必死に呼びかけてきたような気がしたが、その言葉を理解する余裕はなく、ついには地面に倒れ伏してしまった。
(……こわい。恐いよ……お父さん、お母さん……)
白くまろい頬を、一筋の涙が流れていく。――その瞬間、
美澪の身体が強く発光し、金の粒子のようなものが肢体を包み込んだかと思うと、倒れ伏していた身体はひとりでに起き上がり、まるで聖母マリア像のように、神官たちに向けて両腕を前に差し出した。
意識をもうろうとさせ、むせび泣いていた美澪の変わりように、神官長たちは動揺し身構えた。
「エフィーリア様。どうか、お気をたしかに……!」
その呼びかけに応えるように、美澪は閉じていた目蓋を|鷹揚《おうよう》に開けた。すると驚くべきことに、彼女の瑠璃色の瞳が、星くずを集めてつくられたような、神秘的な|金色《こんじき》に染まっていたのだ。
今まで叩頭していた神官たち、|狼狽《ろうばい》していた神官長らは、がらりと変化した美澪の様子に騒然となった。
皆が混乱し、神官長に指示を仰ごうと集まる中。それまで動きのなかった美澪の口が開いた。
『聞け、信徒たちよ』
言われ、皆が一斉に振り向いた。
『|我《わ》が名はヴァートゥルナ。万物の生と死を司るもの』
その場にざわめきが起きたものの、神官長の|一瞥《いちべつ》にて場は落ち着きを取り戻し、美澪――ヴァートゥルナ――に向かって一斉に叩頭した。
『この者――泉 美澪は、私の|愛する子《エフィーリア》。万物の根源にして、人の魂を浄化し慰める者』
おお、やはり、と控えめな声が上がる。
『その名は、ミレイ・エフィーリア・ディ・ヴァートゥルナ・ヒュドゥーテル。――私の心に|叶《かな》う者なり』
言って、声が途切れると、美澪の身体はひときわまばゆい光を放ったのち、その場に崩れ落ちた。
光が消え去り、その場に静寂が満ちる。神官長は、美澪に駆け寄り、力なく横たわる身体を抱き上げると、「メアリー」と声を上げた。
神官長に呼ばれ、彼の足元に参じて跪拝した少女――メアリーは、「お呼びでしょうか、神官長様」と面を上げた。
「うむ」と振り返った神官長は、「ついてきなさい」と言って神殿の奥へと歩き出した。彼が向う先には、高貴な要人のために用意された居室がある。
神官長の3歩後ろを影のように追いかけていたメアリーに彼は言った。
「今この時より、おまえを還俗させ、エフィーリア様の侍女の任を与える。メアリー・ド・ラウィーニア。手抜かりなきよう、一心にお仕えしなさい」
メアリーは間を置かず、
「ありがたき栄光に感謝いたします。ブロネロー神殿の元見習い|神女《しんじょ》として、ヴァートゥルナ様と神官長様に恥じることのないよう、誠心誠意お仕えいたします」
言って、床に額を擦り付けて叩頭した。