|美澪《みれい》は、自分と同じ瑠璃色の瞳と紺青の髪色をした少年の姿に目を丸くしたのち、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「……あたしのこと、知ってるんですか?」
警戒しながら問いかけた美澪に、少年はにこりと人好きのする笑顔を浮かべ、
「知ってるよ。だって美澪は、ボクの|愛し子《エフィーリア》だもの!」
と言って、無邪気に顔を寄せてきた。
少年の顔が間近に迫り、美澪はとっさに上体をのけ反らせ、一歩二歩と後退する。それから眉間にシワを寄せ、不快感をあらわにすると、美澪は少年の|身体《からだ》を、足の爪先から頭の先まで無遠慮に眺め回した。
(年齢は15、6歳くらいかな? それにしても綺麗な子ね)
美澪は|不躾《ぶしつけ》にも、少年の顔をまじまじと観察した。それに対して少年は、嫌がるそぶりを見せることはなく、にこにこと笑顔を浮かべている。
少年の顔立ちは外国人のように彫りが深く、顎のラインはシャープだが、頬がわずかにまろく、それが幼い印象を与えた。肌は白磁のように白く滑らかで、瞳を凝らしても毛穴ひとつ見えない。
そして秀眉の間には、スッと通った高い|鼻梁《びりょう》と薄くて形の良い唇が収まっており、二重目蓋の|眼窩《がんか》に|嵌《は》まっているのは、深い紫みを帯びた瑠璃色の――まるでラピスラズリのような輝きを放つ瞳だった。
「――美澪?」
「ぁ、」
透明感のあるテノールの声に名を呼ばれ、美澪はようやく我に返った。そして、ずっと心に引っかかっていた疑問を口にした。
「あなたは誰ですか。まるであたしのことを良く知ってるみたいに馴れ馴れしいですね。それに、あたしが『えふぃーりあ』? ……意味がわかりません」
美澪は険しい表情を浮かべて言い募った。すると、プッと吹き出した笑い声が降ってきて、美澪はムッと顔をしかめた。
(失礼な子ね!)
しかし少年はなおも肩を震わせながら笑い続け、美澪の機嫌を損ねていった。そんな美澪の様子を|一瞥《いちべつ》し、なんとか笑いを収めたらしい少年は、目尻に浮かんだ涙を拭い去り「ごめん、ごめん」と謝ってきた。
「……あたし、笑われるようなことを言いましたか?」
不機嫌を隠そうともしない美澪に対して少年は、「ううん。言ってないよ」と、こともなげに言い切った。
「険しい表情の美澪も可愛かったけど、不機嫌そうな美澪も可愛くって! やっぱり本物はいいね!」
「はぁ?」
上機嫌で意味のわからないことを言い連ねる姿に|呆《あき》れるしかない。
「……まあ、もうこの際、なんでもいいですから。とりあえず、あたしの質問に答えてもらってもいいですか」
そう投げやりに言った美澪に対して、少年は気を悪くするでもなく、
「いいよ! まずは自己紹介ってやつからだね!」
と妙に意気込みながら、その場でくるりと一回転してポーズを決めた。
「こほん! ボクの名はヴァートゥルナ神。気軽に『ヴァル』って呼んでね!」
言ってヴァルは、右手を胸にあてて優雅にお辞儀をしてみせた。その時、顎のラインで切りそろえられた癖のない真っすぐに伸びた髪が、白い首筋にさらりと流れた。まるで宵やみを連想させる紺青の髪色と、雲間から差し込むヤコブのはしごが神秘的な美しさを演出していて、美澪は思わず|見惚《みほ》れてしまった。
――とはいえ、さすがに突拍子もない話だ。
美澪が「あなた……ヴァルは神様なんですか?」と半信半疑で尋ねると、ヴァルは、「うん、そうだよ!」と得意げに胸を張ってみせた。美澪は、
「信じられない……」
と独り言のようにつぶやいた。そもそも、ヴァルの人間離れした容姿を除けば、一見、美澪と同じ人間と大差ない。
確かに、絵画に描かれている神や天使は大抵が人の|形《なり》をしているが、それは人間が想像した姿であって、ヴァルの話はにわかに信じがたいものがあった。
そんな美澪の心の内を見透かしたように、ヴァルは心外だと言いたげに目を細めて言った。
「美澪、ひどい。ボクが神だって信じてないでしょ」
「はい。信じられません」
美澪は迷うことなくキッパリと言い切った。
頑なな態度を崩さない美澪の様子に、ヴァルは「しょーがないなぁ~」と眉尻を下げて、おもむろに右手の指を鳴らした。
すると驚くことに、空の色が|黄昏《たそがれ》へと変化したのだ。深い群青色に黄や|橙《だいだい》、赤などの色が線状に交わって美しいグラデーションを作り出し、空にかかる雲の群は黄昏色に色づいて、それらが鏡合わせの水面に映る景色はなんとも幻想的だった。
「凄くきれい……」
眼前に広がる美しい景色に思わず瞳を奪われていると、ヴァルがくすっと笑う気配がした。「どう? 気に入った?」と聞かれて、ハッと我に返った美澪は、|不承不承《ふしょうぶしょう》こくりとうなずいた。
「……ねぇ、ヴァル。あなた、なんでこの場所の天候を操れるんですか?」
警戒していた猫が、少しだけ心を許し始めたような美澪の様子に、ヴァルはニコッとほほ笑んだ。
「ここがボクの神域だからだよ。なんでもボクの思い通りにできるんだ」
「しんいき?」
「そう。神の領域。――ようは、ボクの心象風景ってことかな」
(心象風景……)
つまりここはヴァルの心の中の景色ということだ。
しかしそれにしては、
「何もないですね……」
ぽつりと口をついて出てきた言葉は、なんともいえない哀愁を含んでいた。そしてなぜか、|寂寥《せきりょう》の思いが胸底から湧き出てきた。美澪は空色のセーラー服の上から、そっと胸元を押さえる。
(ヴァルとは出会ったばかりだし、信用なんて全然できないのに。なんでこんな気持ちになるんだろう)
美澪の負の感情とは別に、ヴァルと共にいると懐古的な気持ちが生まれ、その心に寄り添ってあげたい気持ちが沸き上がる。17年間生きてきて、こんなに強い気持ちを誰かに抱いたのは初めてのことだった。
(あたし、どうしちゃったの?)
そうしてふと、ヴァルが何も言ってこないことに気が付いた美澪は、ハッとして顔を上げた。
「ヴァ、ヴァル……?」
そこには、表情から感情がごっそりと抜け落ちたヴァルがいた。
先程までとは打って変わって、冷たい彫像のように|佇《たたず》むヴァルの姿に、美澪はひゅっと息をのむ。心なしか周囲の気温が下がったように感じた。
(もしかして、触れちゃいけないことだった?)
美澪は強気でいた気持ちがしぼみ、顔が青ざめていくのを感じながら、ごくりと生唾を飲み込み、おそるおそる口を開いた。
「あ、あのっ! あた、あたし、余計なことを……」
言いながら、足を一歩前に踏み出した瞬間――
「キミがいる」
「え?」
「美澪がいるよ」
温度を取り戻したテノールの声が、神域を満たす清浄な空気の中に吸い込まれていく。
美澪はヴァルの急激な変化に戸惑いつつも、自分を見つめる瞳の奥に慈愛の色を見つけて、緊張していた心をほんのわずかに和らげた。