季節は春。
図書委員の|泉美澪《いずみみれい》は、放課後の図書室で脚立に乗り、返却された本を本棚に戻す作業をしていた。
ブックトラックから最後の一冊を手に取って、本棚の既定の場所へ収めると、|美澪《みれい》は満足気に腰に手を当てた。
「よっし、完璧!」
予定通りに全ての仕事を終わらせて、あとは戸締まりだけだと脚立から床に下り立った時、何かがどさりと落ちる音がした。
「……なに?」
(あたし以外の生徒は全員退出したはず、よね?)
4月半ばの日の入りは早く、薄いカーテンが引いてある窓の外は、すでに|暮色《ぼしょく》が漂い始めていた。
もうすぐ退出するつもりだったので、蛍光灯は貸出カウンターの上と作業場所にしか点灯しておらず、音がした方向の本棚が並んでいる場所は薄暗い。
窓も扉も締め切られた室内には、ホコリっぽい空気と古い紙のにおいが満ちていて、普段は好ましく感じるそれに、なんとなく不気味さを覚えた。
(……でも、確認しに行かなくちゃ)
ふとしたらすくんでしまいそうになる足を、一歩一歩踏み出して、音がした方へと向かう。そうして、並んで立つ本棚の間を進んでいくと、黒のタイルカーペットの上に一冊の本が落ちていた。
「……なぁんだ。本だったのね」
(……それにしても、本が勝手に落ちるわけないし。どうやって落ちたんだろう……?)
若干の疑問を感じながらも、緊張を完全に解いた美澪は、しゃがんで本を手に取った。その際、鎖骨をなでるようにこぼれ落ちてきた紺青の髪をスッと耳にかけ直す。
「ずいぶんと古びた本ね」
革の表紙は傷んでボロボロ。紙もボロボロで、|綴《と》じてある糸は朽ちかけていた。
少しでも雑に扱えば壊れてしまいそうな本を細心の注意を払って抱えると、美澪は貸出カウンターに戻った。
そしてオフィスチェアに腰を下ろし、乱れた水色のスカートを整えて、抱えていた本をカウンターの上にそっと置く。革の表紙には模様も装飾もなく、題名も表記されていなかった。
本好きの好奇心をくすぐられた美澪は、慎重に表紙を開いて変色したページをめくる。
そして1ページ目を開いてすぐ、本の内容が明らかに異質なものだと気付いた。
「何これ……」
美澪は、原因の分からない焦燥感のようなものに駆り立てられながら、パラパラとページを繰っていく。どのページも同じ仕様になっていて、左ページに文章が書いてあり、右ページに挿絵が描かれていた。挿絵は繊細で緻密に描かれていて、美術館に飾られている名画のようで瞳を|惹《ひ》いた。
問題なのは、文章に使われている文字だ。一見すると英語のように見えるが、よくよく見ればギリシア文字に似ている気もする。
しかし、ギリシア文字かと言われればそうではなく、あくまでも似ているというだけだ。世界には多くの文字の種類があるけれど、美澪が知っているのは数種類だけで、それも読めるわけではない。なのに――
「あたし、なんで読めるの……?」
ひどく動揺し、震える指先で文字の羅列をなぞっていく。
「……世界は創世神により創られた。創世神の命を帯びた、水・木・火・土・金の神々は、|水の国《ヒュドゥーテル》・|木の国《ディエボルン》・|火の国《エクリオ》・|土の国《イストスエラ》・|金の国《スージン》の五国を建国して人間に知識を与えた。ペダグラルファ創世記、一章一節……」
美澪の心臓は、全力疾走したかのように激しく拍動して、今にも胸を突き破り飛び出してきそうだった。
今すぐ本を閉じてしまいたいのに、美澪の意思に反して、左手はページをめくり続ける。
右手で口元を覆い、荒くなる呼吸を抑えながら次のページをめくり、そうして視界に入ってきたのは、上半身が人で下半身が|龍《りゅう》の美しい女性と、|鳳凰《ほうおう》のような羽と尾を持つ男性の挿絵だった。
まるで騎士のように、女性の手に口づける男性の姿。その絵にどこか|既視感《デジャヴュ》を覚え、なぜか男性の|凛々《りり》しい横顔から瞳がそらせなかった。そして――
「ゼスフォティーウさま」
無意識に口をついて出た言葉に、美澪がハッと驚いた。その時、
「みぃーつけた」
透明感のある明るい声が|耳朶《じだ》に触れた。
そして状況把握をする暇も与えられず、美澪の足元に、ぽっかりと大きな穴が出現した。
「きゃ……!」
抵抗するすべもなく一瞬の浮遊感を経て、穴の中へと吸い込まれるように落ち込んだ先は水の中だった。
「ごぼぼ……っ!」
背中から落ちた衝撃で、酸素を全て吐き出してしまった。
(やばい……っ、溺れちゃう……!)
とっさに鼻と口を覆ったが、不思議なことに、水が肺を満たすことはなく、地上と同じように呼吸することが出来た。
(一体、どうなってるの……)
美澪は驚きに目を見張ったまま、眼前に広がる光景をただ|呆然《ぼうぜん》と眺めるしかなかった。
恐ろしいほど透き通った水は、どこからか射し込んでくる光を受けて、コバルトブルーに輝いていた。きっとこんな状況でなければ、美しい光景に感嘆の声を上げたはずだ。
(なにが起こったの……?)
あのボロボロの本を見つけるまでは、いつもと変わらない平凡な日常だったのだ。それなのに、どうしてこんなことになっている?
理解しがたい出来事に、思考回路がついていかない。
だが今の状況で、なにより一番理解出来ないことは、水中での呼吸が可能だということだった。
(……ゆめ。……これは夢よ、夢! あたしは夢を見てるのよ。きっとそう。全部、夢の中の出来事だって考えれば、説明がつくじゃない!)
今日は少しだけ肌寒い日だったけれど、図書室の窓から西日が射し込んでくる頃には、暖かな日和に変わっていた。
カウンター作業中にうとうとと|微睡《まどろ》んで、そのまま寝てしまったに違いない。……見回りの先生に見つかる前に、早く瞳を覚まさなければ。
美澪は、瞳を強く閉じて、
「これは夢よ! 早く起きて!」
そう声高に叫んだ。すると、
「――夢じゃないよ」
そう背後から声をかけられ、美澪は肩をビクッと揺らし、おそるおそる目蓋を上げて驚愕した。
「えっ?」
(あたし、さっきまで水中にいたよね!?)
いつの間にか美澪は、薄く水の張った地面の上に立っていた。そして、濡れていなければならないはずの水色のセーラー服は、濡れた形跡もなくカラリと乾いている。
「あの……っ!」
振り返った先に人の姿はなく、その代わり、視界に飛び込んできた景色に|瞠目《どうもく》する。しばし|呆《ほう》けたあと、ゆっくりとした動作で、周囲をぐるりと見回した。そうしてガラス玉のような瑠璃色の瞳に映ったのは、水が薄く張った平らな水面に、真っ青な空と白い雲が鏡合わせのように映り込んだ幻想的な光景だった。
「……どうなってるの……」
もしや、白昼夢でもみているのではないかと思い、右頬をぎゅうっとつねってみた。
「痛い……」
(夢じゃないってこと?)
ヒリヒリする右頬をなで擦っていると、含み笑う声が聞こえ、美澪は後ろを振り返った。そうしてそこに立っていたのは、物語に登場する神や精霊のように、優美で神秘的な容姿をした少年だった。
「やっと会えたね。美澪」