死に乙女ゲームで、主人公が(参戦を決意してから)かなり早期に対人戦に慣れた理由について。
結論から言えば先生が、あまりの鬼コーチだったので、どんな敵もそれよりマシと言うのが精神的支柱になったと言う理屈です。
この辺は、以前創作論で触れた「同じ格上の敵に相対した時、身近に居ないドラゴン等よりも人間タイプの方が力量差が見える分、心が折れやすい」と言う持論に基づいています。
また、○○よりはマシ理論は私自身がかつてロードサイクリングをやっていた時の実体験から来ています。
私の地元には非常に勾配のきつい小山があるのですが、ここを一度でも走破すると、どこの坂でも上りきる自信がつきます。
(フィジカル的な能力が足りない場合、そもそも、地元の山は走破できませんし)
「○○山よりはマシ……○○山よりはマシ……」と心に念じる事で、大抵の坂が緩やかに見えるものなのです。
また、同じ“厳しい上り坂”でも、内周を走るか外周を走るかでも全然違っていて、やっているうちに嫌でもその判断力が身に付くものです。
もうひとつは、元自衛官だった知人が在職時代、上官に言われた「戦地での敵は理不尽そのものである。従って我々はお前達を、それよりも理不尽に扱う」
と言う言葉も元になっています。
全ての局面において肯定できる言葉ではありませんが、普段から限界の“遊び”を作るために、コーチングを厳しくするのも一つの側面だとは思います。
ただそれにこそ、目先の苛立ちや理想に惑わされない、個人の利益よりも組織全体の理を取る無私の心が必要であり、なかなかうまく出来る事ではありません。