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新連載『蒼昊』

 僕は、馬鹿ではあるかもしれないが、馬鹿であろうとはしていない。夏目漱石先生の『こころ』には、「向上心のない者は馬鹿だ。」というような記述があった気がする。とどのつまり、そういう話だ。僕は、人間は、前に進まなければならないというのが大前提だ。「逃げるは恥だが役にたつ」という言葉がある。長期的な目で見ると、この場合は逃げたことも、前進したということになるのではないか。どうだろうか。個別具体的な話に当てはめないと断定はできないが、僕はこの結論には頷くわけにはいかない。前進するために逃げるのではなく、逃げたいから逃げたに他ならないと思ってしまう。努力ができない理由は、努力をしたくない以外に何かあるだろうか。勉強をすれば殺す、と銃口を突きつけられているときなども考えるには考えられるが、いささか現実的ではない。僕は人に対して「がんばれ」とは言わないようにしている。そういうとき、言葉遣いはとても難しいが、「応援している」というようにしている。その人は僕が、がんばれとかそういうことを言うのに関わらず、がんばらばければいけない、つまり義務の状態なのだ。僕がそういう言葉を発しようとしているときは。変に、諦めたことまでも肯定すること。非常に馬鹿馬鹿しく思われる。宝くじなど、運の要素がすべてのときはどうしようもない。「運も実力のうち」という言葉がある。例えば、とある物事を成功させるために必要なものが運が8割、実力が2割だとする。この場合、この実力の部分を完璧にする、近づけるしかできることがないのだ。運要素は、同様に確からしく割り振られるとすると、これは実力が2割しか占めていなくても、実力で戦うしかないのだ。実体がないものを求めても虚しい。馬鹿だ。僕が書いている内容に、意見がある人はコメントを書けばよい。双方が納得できるまで語り明かす所存である。最後に、僕が、根性論しか言わない脳筋だと思われるのは甚だ心外である。

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